『國文學』第51巻5号(2006年5月号)の特集は「戦争と文学」。『満洲グラフ』や大東亜の建築様式が出てきておもしろい。その特集記事のひとつ、曾根博義「十二月八日――真珠湾――知識人と戦争」は日本が米英に宣戦布告した「十二月八日」直後の文学者や知識人の反応を取り上げたものだが、その中で曾根氏が困惑させられたある体験について語っていた。
2003年11月5日、東京学芸大学で開かれた昭和文学会秋季大会のシンポジウム「いま<小林秀雄>とは?」で、細谷博氏が小林秀雄が太平洋戦争開戦後もっとも早く発表した「三つの放送」という文章を紹介した。曾根氏も会場で細谷氏の話を聞いていたが、その小林の文章は当時多くの文学者や知識人が発表した同種の文章とさして変わるところのないものでしかなく、小林秀雄も同じようなものを書いていたのかという感想しか持てなかったという。ところが細谷氏はこの小林の「三つの放送」を、ここには自意識を放棄した美しさがあり、魅力がある、問題は思想ではなくて美なのだ、と絶賛。そして曾根氏がおどろいたのは、昭和文学会に集まった人々のほとんどがその細谷氏の評価に共感しているように見え、発表後、「いい文章を教えてくれた」という発言は出たが質問や意見はほとんど出なかったことだった。
かりに昭和24年生まれの氏は知らないにせよ、会場には私と同じ戦前・戦中生まれの人々もたくさんいるのだ。なぜ彼らは黙ったままなのか。
(曾根博義、『國文學』第51巻5号)
たまりかねて曾根氏は手を挙げ、疑問と批判をぶつけた。
学会の会場で私は、自分がいちばんよく知っている伊藤整の十二月八日直後の率直で誠実な心情吐露を例にあげて、誠実だとか美しいとかだけでは済ますことの出来ない傷ましい問題がそこにはあることを指摘した。小林秀雄まで似たような発言をしていることがわかった以上、なぜ知識人や文学者の大半が申し合わせたようにほとんど同質の誠実で美しい戦争賛美の言葉を発してしまったのか、しかも、戦後はそんな戦時中の発言を自ら忘却、隠蔽することによって物を書き続けようとしたのか、そのことをよく考えてみなければならない、と述べた。
(同上)
しかし曾根氏の批判は通じなかったらしく、細谷氏はシンポジウムでの発表と同じ話をその後もあちこちで書き続け、さらにはそんな細谷氏に同調する書き手も出てくることになった。
……文学会でも何かが起こっていたのか?
曾根氏は当時の文学者の反応は言論統制だけで説明がつくものではなく、開戦直後に国民の多くが同様の心情を抱いたということについては、いつから、どのようにしてそのような方向づけが行なわれていたかを過去に遡って広く調べてみなければならないとし、さらに文学者のなかのどの部分が戦時中のメディアに起用されたかを検討してみることも欠かせないだろうと言っている。
ジャーナリズムから開戦の感慨を作品や感想やアンケートのかたちで求められた文学者は、何らかの理由で銃後にいた、ある程度以上の文壇歴を持つ三十代から四十代の作家や評論家たちだった。
(同上)
まあ、どの業界でも三十代から四十代の男性というのが働き手の中心にいるのかなというのはありますが、それだけに業界の流行から外れまいとするのが要領のいい人たちということになるのでしょう。完全に外れると仕事ができなくなったりもしそうだし。曾根氏も少数派ながらファシズムに抵抗した者がいることも忘れてはいけないとしていますが、そういう少数派は広く世間に影響力を持てなかったのだろうと想像してしまう。メジャーな雑誌で取り上げてもらえなかったりすると大勢に知られないままになるだろうし。しかし論壇内部の状況なんて一般読者にはよくわからないものな。そこまでわかって書いたものを判断してくれと言われても困るのだわ。
『新現実』vol.3でぼやいていた香山リカ(精神科医)と大塚英司(まんが原作者)のお二人は、本業が論壇の外にある人たちだったりもしているんですね(参照)。香山や大塚が流行に流されなかったのはそういうことも関係してるのかな、と、ふと思った。