中曽根康弘

1918年生まれの中曽根康弘森繁久彌より五つ年下、現在89歳である。
中曽根康弘、と聞いてまず連想するのは、国鉄民営化になるだろうか。
週刊金曜日』2007年11月20日号に、奥村宏「国鉄民営化がもたらしたもの」という記事が出ている。
戦後の黄金時代を過ぎ1970年代に入ると石油危機を契機として、資本主義国はこれまで経験しなかった危機に陥った。物価の上昇によるインフレと不況による失業者の増加。
80年代になると、この危機の打開策として新自由主義にもとづく規制緩和が喧伝されるようになる。イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権が、この規制緩和による危機対策を実施した。
日本では中曽根内閣が、イギリスやアメリカの例にならうかのように国鉄電電公社、専売公社の民営化を押し進めようとした。しかし、80年代の日本は、石油危機を乗り切った後で、危機どころか「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどの好調期だったのだ。イギリスやアメリカとは事情が異なっていたのである。
それなのに、何故、中曽根内閣はあえて国鉄の民営化を進めたのか?
その『週刊金曜日』の記事によれば、2005年11月20日NHK総合テレビで、元首相はこう語ったという。
中曽根康弘国労をつぶせば総評・社会党が崩壊する。意識的にやりました」
この発言だけ聞くと、中曽根は日本の経済がどうこうという以前に、自分自身の政治的野心のために行ったのかと思われてくる。社会党崩壊という彼の目標は達成された。そして、彼の最大の政治目標は、たぶん、改憲、だろう。
岩波『世界』では2007年7月号から、「地域切り捨て 生きていけない現実」が連載されている。憲法25条にある「生存権」が空洞化していくような財政危機にあえぐ地方の現状をレポートしたものだ。
この連載で、現在の地方の苦境がどこからはじまったのかというときに必ず出てくるのが、中曽根政権時代の政策なのである。一例。

最後に、中曽根政権以来の民営化、民活リゾート路線の意味を理解するために、つぎの事実を思い起こしておかなければならない。当初、国鉄民営化計画では、旧国鉄から国鉄清算事業団が引き継いだ累積債務25兆9000億円は16兆7000億円に減少するはずであった。ところが、これまで見てきたように旧国鉄の最優良地の売却はギリギリまで遅らされ、「手頃」な価格で大手ゼネコンを媒介にして大企業に払い下げ、残った土地は土地開発公社に引き受けさせた。一等地の売却が見送られる中、金利負担が累積していった。結局、国鉄清算事業団が解散した1998年には、累積債務額は減るどころか、28兆3000億円に膨らんでいった。結局、そのうち24兆2000億円が一般会計に移され、国民負担となった。さらに、これからは地方自治体の土地開発公社に移された旧国鉄民営化のツケを支払わされていくことになる。それは、時として「自治体破産」という形を取ることになるかもしれない。だが、これも国民負担であることを決して忘れてはならない。
(引用元:金子勝、鈴木徹、高端正幸、松井克明「民営化のツケ 誰がそれを払うのか? 『地域切り捨て 生きていけない現実』第2回」 『世界』2007年8月号)

小泉改革は、この中曽根改革の延長線上にあるものだ。中曽根の悪夢は今も終わらないままなのである。
中曽根はまた、戦後の首相として初めて靖国神社公式参拝し、靖国外交問題化に燃料を投下した政治家でもある。この公式参拝には中国から激しい反発が出るなどし、次の年からは見送られることになった。中曽根政権下の1987年より赤報隊によるテロが始まる。1988年、赤報隊公式参拝をしなくなった中曽根に脅迫状を送っている。(関連:『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』朝日新聞社116号事件取材班(編) 岩波書店 - 一人でお茶を
小泉純一郎は首相になってから、中国をあえて挑発するかのように靖国参拝を行っていた。「自分は正しい国家主義者だ」と思っているらしい中曽根は、そんな小泉の振る舞いについて軽薄だと苦言を呈していたよう記憶する。しかし、あのころの小泉の態度は「なんかもったいつけてるけどさ、あんたのやってたことって、はやい話がこれだけなのよん♪」とエラぶる大勲位をせせら笑うかのようにも見えないこともなかったな……小泉、困った男である。
困った小泉首相ではあったが、中曽根を引退させたことは、小泉が成した数少ない良き事のひとつである、私はそう思っている者である。
プッツン小泉の蛮勇なかりせば、今でも大勲位は国会の中に座っていたにちがいない。