あたたかく日が明るかった一日二日にくらべると、今日の空は曇りがちで昼間も暗い雰囲気だった。朝はカラスが家の近くで大きな声で鳴くし、昼は昼で、外を歩いていると道のすぐ近くの茂みの中からキィィキィィという鳥の鳴き声。カラスでもなくスズメでもない鳥のようだったが、その声は悲鳴のように聞こえた。鳥は天候の変化には敏感だが、何が起こるのだろうか。
そんなこともあってか、正月に見た討論番組のことを思い出した。不吉な感じ、不快な印象を受けた場面があったことを。
ひとつは、大晦日から元旦にかけてやっていた「朝まで生テレビ!」。私が観たのは朝の4時過ぎから30分程度、そして少し間を置いて、終わりの30分くらい。番組全てを観たわけではないので、ごく局所的な感想になるのだが、堀紘一(ドリームインキュベータ会長)が実に気味悪く、病理的な印象さえ受ける表情挙動発言をしていた。この方は、これまでも「誰にでもできること」といいながら店員さんが商品のバーコードを読み取る仕草をしてみせたり、サブプライム危機が顕在化したころには今から思えばまったくピントがはずれた見立てを竹中平蔵といっしょにテレビで喋っていたりと、私が前からあまりいい印象を持っていないテレビ出演者なのではあるが、その思いを差し引いても、あれはあきらかに変だ。おかしい。気味悪い。こう思ったと私ははっきり書いておきたい。
田原総一郎も、どこか硬直したかんじで、仕切りがいつものようにはできていないように見えたが、年末年始の特別編ということで、出演者の数がいつもより多かったのと時間も長かったこと、そして私が観たのが終わりのほうだったということから、疲れもあったのかもしれない。年齢というのもあるのだろう。
しかし。田原とか堀とかいう年代の人たちは、ここ二十年ほど信じてきたことが一気に崩れるのを目の当たりにすると、若い人より衝撃が大きいのではないだろうか。特に彼らのように、ここまでうまく時流に乗って成功してきたようなおっさんほど表面的には平気そうでも内出血がひどいような気がしてくる。
もうひとつは、NHKで元日にやっていた討論番組に竹中平蔵が出ていたこと。この番組も途中からしか観られなかったのだが、竹中平蔵が相変わらず平然とテレビに出て喋っているというだけでも私は不快だ。しかも、竹中の発言を聞いていると、この男は新自由主義も市場原理主義も実は信じてないのではないかと思えてくるからますます不快感が増す。なるほど何も信じていないから小泉純一郎と相性がよかったのかなとも思うが、しかし小泉純一郎ならまだオペラや歌舞伎の美と陶酔だけは信じているのではないだろうか。竹中にはそういうバカさすらない。まったく救いがたい。番組には金子勝や斎藤貴男といった、竹中平蔵をずっと批判してきた人も出演していたのが救いだった。
小泉時代に大臣までつとめた竹中平蔵は、アメリカでグリーンスパンが受けた程度には批判を受け、当時したことでまちがいがあったのならそれを認めるべきだと思うのだが、どうにもそうなりそうにないところがもやもやした不安を呼ぶ。
まちがいを見直すこともできず、混濁し、妄想的になったまま、ますます泥沼に入り込んでいくのではないだろうか。前の戦争の時も日本はこんな風だったのかもしれないな。テレビにはなぜか見るとそんな気持ちになる人が大きな顔で出てきて政治や経済について喋っていることが間々ある。どうせ出すならもっとまともなのを連れてきて喋らせて欲しいものだが、テレビに出るのが好きな人にはまともなのは少ないのかもしれない。