笙野頼子『海底八幡宮』河出書房新社

笙野頼子の新刊ということで、購入しました。
金毘羅として覚醒して後、書き手がさらに深化していく過程が描かれています。
体の弱ってきた老猫を世話しているうちに浮かんでくる様々な思い。それに並行して話の噛み合わない相手への対応に頭を悩ませたりしながらも小説を書き、その中で今の自分には何が必要なのかを考える日々が続きます。
いろいろなことを感じ考え、それは書き手の中でことばの海となり、その海の底から亜知海が現れます。この亜知海と対話することで、書き手はこの現状をどう受けとめ、そして自分はどう進めばいいのかを悟っていきます。
陸から追われ、海の都の王となった亜知海には、かつて陸から排除されていった者たちの思いが集積しています。ないことにされたことば、消されてしまった声、そのすべてを内包し、神のように書き手に語りかけてくる亜知海。しかし、合い間合い間で、その亜知海の話に対してこの本の語り手が感想や疑問を発してくれるので、読み手はいたずらに神秘マンセーに流されたりしないで済みます。
亜知海との対話が、書き手にどう影響し、その結果、どんな世界が見えてくるか。それは読んでのお楽しみです。
小説の中の場面では、書き手がいろいろ心境の変化を体験した後で、庭の草抜きをしているときに、草や虫が一瞬見せる鮮やかな世界の片鱗に刺激され、触発されて次の作品の構想を得るところが、私には特に印象に残りました。
私も自宅の庭や散歩の途中で、生えている草花に目を止めて、じいっと見てしまうことがあります。草花から自然の息づかいのようなものを感じ、そこから昔の人が神を祀ったりしたくなった気持ちにつながりそうな思いを覚えることがありますね。
しかし、あれだ。私の場合だと、頭の中にはあるとしてもことばの水たまり程度ですから、『海底八幡宮』の語り手とはちがって、どちらかといえば中島らもの『超老人伝』に出てくる「見る人」に近い状態、早い話が傍から見ると「あいつ、なんであんなとこにぼけーっとしゃがんで草なんか見てんねん、だいじょぶかいな」、そういうことにしかなりませんが。
そんな私にも笙野頼子は小説を届けてくれるのです。だから、私も亜知海に会えた。
装幀がすばらしい。読み終えてからあらためて表紙のイラストを眺めると、『海底八幡宮』から音楽が聴こえてくるような気がしてきます。何度か読み返すとさらにいろいろな発見ができそう、そんな濃い作品です。

海底八幡宮

海底八幡宮