佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』中央公論新社

図書館で見ておもしろそうだったので、ざっと読んでメモを取った。あらためてじっくり読んでみたいのだが、ここではメモを書いておきたい。

本書はメディアと権力の関わりをどちらかというと権力の方から眺め、再検証しようとしたものである。ちなみにここでいう「権力」とは中央の統括的な国家権力(政府)とは限らず、藩閥/官僚閥およびその派閥、政党、有力政治家などの政治主体(いわゆる権力系)やローカルな権力を含む。
(引用元:佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』中央公論新社)

本書での主な検証対象は新聞。この本の中に出てくる「政府系新聞」については

ここでは「政府が創刊に関与したり、編集・経営・人事(全部とは限らない)にある程度継続的に関与している新聞で、政府の意向が紙面になんらかの形で反映している新聞。利益の供与を報酬として政府を支持したり、幹部や有力記者を介して政府の影響力が及んでいることもある」と定義しておこう。政府の施策や姿勢に賛同していても、政府側からの働きかけや利益供与がないものは、単に政府支持紙ということになる。
(引用元:佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』中央公論新社)

新聞と権力に関する研究について。

本書の最大の課題は新聞・新聞人と政府・権力の隠微な関係を解明し、そのきわどい間合いの取り方を探り出すことにあるのだが、これまでの新聞史研究ではこの種の問題は等閑に付されてきた。
(引用元:佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』中央公論新社

それは何故なのか。主な理由が8個挙げられている。

  1. 史料の欠乏
  2. 新聞史研究者自体の層の薄さ
  3. 講座派型階級史観・唯物史観のテーゼの影響
  4. 政府支持の言論とは、要するに現状肯定・容認の論理であり、現状破壊・否定・批判の言論に比べ、著しく訴求力・衝撃力に欠ける(見栄えが悪い、目立たない)
  5. 現存の新聞社による社史編纂事業の影響
  6. 新聞人の具体的な行動がよく分からなかったこと
  7. 有力新聞人(特に明治〜大正前半期)を単なる新聞編集者・記者と見誤りがちなこと(その本質は政客的存在)
  8. 政治ニュースや政論を掲げる新聞は本質的に政府と無縁ではあり得ないという事実が軽視されている。政府発信情報に対する需要についての認識も浅い。

この中で、6番目の理由となる「新聞人の具体的な行動がよく分からなかった」ということについての説明を一部引用。

六つ目は、第一点とも関係するが、新聞人の具体的な行動がよく分からなかったことである。現在でも記者の実態は外部からは容易に知ることができないが、過去の新聞人の行動はいっそう分からない。頼りとなる自伝・伝記は顕彰的になったり、事実の再編成・合理化(つまり書き直し)を免れない。記事も不特定多数の読者を相手にしている以上、綺麗事になりがちである。
これらを主史料とすれば、「孤高の新聞人」「独立不羈の記者」が次々と生まれるのは必定である。政府や政党と関わっていたことを書く場合でも、対等同格の相手として向き合っていたということになりがちだ。本人が自伝・回顧録で「友人」「同志」のように書いても、先方は「外部秘書」「使い走り」くらいにしか思っていないということは珍しくない(その証拠に第三者書翰に共通の知己の新聞人が出てくるとき、敬称が添えられていないことが多い。そのくせ本人に対する手紙には「○○先生」などと書いてあったりする)。これも政府系新聞・新聞人の実態(存在)を見落とすことにつながる。
(引用元:佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』中央公論新社)

この本では「新聞は社会の木鐸である」とよく言われるが、ここには二重の意味合いが含まれていることを意識しなければならないとする。比喩としての「社会の木鐸」という「世の中に警告を発し、教え導くもの」という意味と同時に、その比喩が生まれるもとになった昔の中国で君主・有司の意思・政策を人民に伝える際に木鐸を鳴らしていたという故事、それにそのまま重なる「政府発信情報を伝える」という面を忘れてはならない、と。政府発信情報にも大きな需要があるのだ。
現在、新聞はいまのままではもう商売として成り立たないのではないかといろんな人が言っていて、新聞社も次の時代に合った形態に変わることを模索しているように見える。そんなときだからこそ、これまで新聞が果たしてきた役割を見直しておくことも必要になるだろうし、この本も新聞について知る参考になりそうだ。
新聞を批判するときに、まず脳内に理想的な新聞の像を思い浮かべて、それと引き比べて現状の新聞を批判してしまう、ということをしがちだけど、それも乱暴すぎるのではないかと思う。おそらく、これまでだって人々は新聞を読むとき、出来上がった記事をそのまんま信じるというのでもなく、なんとなくその裏にある事情を嗅ぎ取った上で読んでいたのではないだろうか。読んだ記事をどう受けとめるか、またどう利用するかは読んだ人毎にちがっていただろう。
かくあるべき新聞像と現実の新聞の姿がズレているからというだけで、ばっさり斬り捨てるのはどうかと思う。報道という分野を支えてきた媒体が力を失おうとしているというのは市民にとっても大きな問題なのでは。
ツイッターやブログの普及で、記者と政治家の関係はインターネットがなかった時代とは大きく変化するのかもしれない。しかし、政治家が直接一般人に語りかけるというのも善し悪しなのではないだろうか。政治家もほんとに都合の悪いことは語らないだろうし、権力者と一般人は同列には並んでいないのに、仮にネット上でだけだとしても、そのことがまるでないことであるかのようにされてしまうのは、気持ちが悪い。
鈴木宗男佐藤優がジャーナリストをころころ転がしているのを見るにつけ、あの手の方たちとは適正に距離を保ったままでいないとあぶないよなと思ってしまうのですね。
とりとめなくなりましたが、このへんで。