キャタピラー

ユープラザうたづで高松シネマクラブによる上映会があったので観に行ってきました。
戦地から四肢を失い帰還した夫の世話をする妻が主人公。
冒頭、ニュース映像を使って物語の背景となる日中戦争の経過を知らせる。その流れで、戦火の中、中国の民家に押し入り婦女子を暴行する日本兵の姿が描かれる。
場面は変わり、日本の静かな農村へ。出征する兵士を見送る人たちの行列とすれちがうように村に入ってくる一台の車。この村から出征した黒川久蔵(大西信満)が送り戻されてきたのだ。四肢を失い、頭には火傷を負い、耳もほとんど聴こえない状態になって。久蔵の妻・シゲ子(寺島しのぶ)は変わり果てた夫の姿に取り乱すが、世話をする者は他にいない。周囲からは「軍神」と呼ばれるようになった夫と共に戦時下を生きることになる。
狂乱するシゲ子に引きずり込まれるように映画の世界に入ってしまった。シゲ子を演じた寺島しのぶベルリン国際映画祭で賞を取ったのは当然だと思う。絶望して一時は夫を殺害しようとするものの、もはや一人では何もできなくなった夫がおしっこをしたいのに気づき、世話をしているうちに無力な相手にやさしい気持ちになってしまったり、夫との性行為に対して変わるそのときどきの気持ち、「軍神」として軍服姿の夫を外へ連れ出したり、それを相手がいやがっているのを感じると皮肉を言ったり、疑問や苛立ちを抱えながらも日常を過ごしていく妻。シゲ子の感情の揺れがそのまま映画全体を脈動させていた。
シゲ子は子供ができないため、夫からなじられたり暴力をふるわれたりしていたこと、夫の身内からは実家に帰そうという話も出ていたことがうかがわれる。しかし、いまやシゲ子なしではなにもできなくなった夫。場面によってはかつての奴隷が立場を逆転したかのように、妻が夫をなじり、責める。シゲ子に性交を強いられる久蔵の脳裏で、無力な自分にのしかかる妻の顔が、かつて中国で女性を襲ったときの自分の顔にだぶる。
農村の日々は農作業が続くが、このころはすべて人力で行われており、大変だったろうと想像。そして、身体が弱くて徴兵されないでいる親戚の若い男はそのことを不名誉に思っている。毎日農作業をこなし、できた作物を人にわけてあげたりできているのに。そう思わされる風潮だったのだ。これは今の時代でもあることで、そういう風潮の只中に生きていると逆らうのはむずかしいだろう。劇中ではゲージュツカのクマさんが村のこまったちゃんになって戦時下をやり過ごしていたが、あれは一種の抵抗運動だったのかもしれません。
余計な装飾のないくっきりしたイメージがテンポよく流れ、戦争によって運命が変えられてしまった二人の男女の苦しみが明確に印象づけられ、最後の反戦メッセージが勢いを持ってこちらの胸に迫る。
戦争の経過、それがもたらした結果をニュース映像を利用して簡潔に説明しているが、その際の効果音がすばらしい。映像が生きて見える。また、空の月を映した後、その月の像が夜の池の黒い水面で震えて映る絵とかさなり場面につながっていくところなど、映画だから観られる表現の妙を味わわせてくれる。
若松孝二の映画はジェイムズ・M・ケインの小説が持っているような魅力がある。