告白

DVDで鑑賞。
娘を殺害した中学生徒に、女性教師が復讐する。
中学校の終業式後、教師・森口悠子(松たか子)は担任クラスのホームルームで生徒に自分は今年度でこの学校を去るが、この中学校のプールで娘が溺死体で発見された事件は、じつは殺人事件で、犯人はこのクラスの生徒である、私はその犯人に復讐する、と告げる。
がさがさしている教室内で、平板な声で話し続ける担任教師、携帯で友だちとメッセージをやりとりしながら笑っている生徒たち、それがやがて森口の話が進むにつれて静まり返り、緊張が走り、犯人がわかったというメッセージが生徒内に飛び交う。
森口が去った後、新学期のクラスでは、犯人とされた生徒がいじめの対象となるが、その生徒に思いを寄せる女生徒も現れ、徐々に事件当日何が起こったのかが語られ始めるのだが。……
担任教師からの衝撃の告白の後、中学校のクラスの様子が音楽に乗せてうまく描写され、みじかく端的に状況が印象づけられる。主だった人物についても、登場人物の心理描写を台詞と映像を合わせることで冗長にならずに見せることに成功している。ラストのひとことも、じつに鮮やかでした。
自分のもやもやした鬱屈を晴らすのに、弱い子を犠牲にした者が、そのことをなかったことにしてのうのうとしているのはいいのか、というのが物語の基調にあり、松たか子が劇中で、忘れ去られた苦しみをつきつける役を見事に演じている。ほとんど感情が失せた顔に濃い思いが浮かび上がるという、こわい演技でした。
ところで、映画でいじめが描かれることは多いのだが、じっさいに現実の中で見たことがあるいじめる側独特のいやな表情というのは、これまで映画の中では一回も見たことがないんですよね。あれは、仲間外れにされていじめる標的になった子の前だけで開陳される、放送禁止顔なんでしょうかね。というか、映画作りにたずさわるような人たちは、さすがにあんないやらしい顔を見せられる立場になったりすることがなかった、ほんとうの意味で負けたり弱かったりしたことのない人なんで、見たことがないから想像もできないのかもしれないね。もっといえば、どっちかっていうと、要領よくいじめる側についてきた人たちだから、映画作ったりできてるのかもしれないしなあ。
まあべつにいいんですよ。映画であんな顔を観たいとも思わないからね。だけど、芝居の世界で演じられるいじめ、現実を象徴する劇としてのいじめと、リアルのいじめはまたちがうね。小説なら、わりとじくじくリアルに書けるのかもしれませんが、この映画の原作はまだ読んでいないのだった。
じつはこの森口の復讐のやり方を見てると、この森口という女性教師は、学生時代はぜったいに自分が外れないように巧妙に立ち回りながら、気に入らない子を攻撃して鬱憤を晴らしてきた人なのかもしれないな、と想像してしまったりするようなところがある。りっぱな人格者のままでいられた夫(内縁)にはわからない、俗人のいやらしさを知っている、だから夫の語る正論ではおさまらないのではないか。そして、もちろん彼女は、子供を殺された母の恨みは絶対的に正当とされるであろうということも、よく承知しているのだ。
自分が正義となれる、その確信がもてたから、前から癪に触っていた生徒に自信満々で嫌がらせをしている、そんな風に見えなくもないのよね。
そういうところも含めて、こわいおはなしでした。また、男の子はつまづいても更生して社会復帰できそうだけど、女の子は死んでしまって、ああそれなら死なずに生き延びて母になった女っていったいなんなんだろうな、と思ったりもしてしまいました。
男の子が女の子を殴り殺したとき、カタルシスがあったのは、内緒です。演じた二人がうまかったから、なんでしょうね。

追記 2012-07-23

ネット上の映画評を観て回ると、シリアスにとらえすぎている感想が多くて困惑した。私の感想も読み返してみるとそうなってしまっているかな。やはり小さな子供が殺されると、不快感が強烈すぎるのだ。
しかし、カーペンター「要塞警察」だって、冒頭で子供が殺されるのだが、あれは映画全体が「リオ・ブラボー」のオマージュだとわかるのでとくに何もいわれない。冒頭のシーンは悪役の残虐さを見せるうまい演出と受け取られる。そして実際、直接的に肉体損壊を見せずにうまく見せている。
私が「告白」から連想するのは、「ホステル」シリーズや「マーダー・ライド・ショー」シリーズのノリなのだが、タランティーノの一連の作品を思い出してもいいのかもしれない。
母もの映画への毒気の強いサイコホラー解釈版として観ればよいのではなかろうか。