ゴダールの決別

DVDで鑑賞。
レマン湖のほとりの町で暮らすある夫婦。妻は牧師に自分は寝た相手が夫か神かわからなかったと打ち明ける。神が夫の肉体を借りて妻と関係を持とうとしたのだろうか。……
あまたある映画の中でゴダール作品が浮き上がって見えるのは、小説本の中に一冊詩集が紛れ込んでしまったせいなのだろう。ゴダールの映画は詩集だ。詩集を読んで小説が書かれていないと文句を言っても仕方がない。詩集は詩集として楽しむしかない。詩の言葉のように、そこに映った一場面が、観る者の心をつついて何かを引き出す。ゴダールの映画を観るとき、それを観る自分がここにいることを忘れることができなくなる。
レマン湖の水面、木々に繁る葉、草原の草花、これすべて風にざわめく。湖面を走る船、道路には自動車、道を抜ける自転車、歩く人々。常に絵の中に動きが見える。その映像がつながり音楽とことばと自然音が静寂の間を伴って反響しあい、淀むことなく流れて最後まで観る者を疲れさせずに乗せていく。映画を観ることでしか味わえない楽しさ、でも観終わった後、悪魔のように編集の上手いゴダールにだまされてしまったような余韻が残る。そう、だまされている。だって今私がしたことは、映画を観た、ただそれだけだもの。いま目の前を音と共に流れて行った映像、私はそれを観た、それだけ。それがすべて。
映画は映画である。ゴダール先生は生真面目にそう教え続ける。
難解というのが定説になっているゴダール映画だが、私にとっては詩的な台詞がタイミングよく出てくるナンセンスギャグマンガのようなおもしろさがあり、これはたぶん、私の頭の中は詩のことばでつつかれても難解な理屈が入ってないから出てこないせいだと思う。この映画でも、レンタルビデオ屋のお兄さんが客の若い女に詩的な言葉を投げかけるのだが、それに対応して女が俗悪ホラー映画の題名を思いついて注文していくあたり、ずっこけ日常のおかしさが出ていた。わりとコミカルな描写が多く、映画全体に軽味があって重たくならないところがゴダール映画の美点なのでは。
ゴダール映画の中では登場人物も軽快に動き、太った人がほとんど画面の中に見られないのも特徴だろうか。この映画の主演だったジェラール・ドパルデューは、いつもどおりのくまさん体型ではあるのだが、腹ぼっこりは控えめで、心なしか普段より足取り軽く歩いていたように見えた。
多作なゴダールだが、私は初期のものと80年代以降のものの中のいくつかしか観ていない。だから、地獄を見ていない状態なのかもしれませんが、私にとってのゴダールは軽快でコミカルな美しい映画を撮る人で、それは映画でしかなくて、ことばではぜったいにつかまえられない映画そのものの美を見せつける人で、それがこれだけ鮮やかにやれる人は他に見当たらない。だから、街の映画館を守っているのは商業映画だろうけれども、映画それ自体を守っているのはゴダールになるの。
フランソワ・トリュフォーの最高傑作はジャン=リュック・ゴダールなのかもしれませんね。