佐村河内&新垣の二人羽織騒動を知って

お昼のワイドショーでもやっていたし、既にネット上にいろいろな記事が出ているのを他の方も読んでいるでしょうから、参照リンクはしません。これはそういう記事を読んだ私の感想です。
ゴーストライターになった新垣隆は作曲家としては現代音楽の作曲家として認知されていた方だそうで、そういう方がエリートからするとダサいけれども大衆受けのいいベタな曲をゴーストになって書いていた、というのを知って、昔ロバート・フィリップが酔っぱらうとブルースを弾きまくるという伝説があったのを思い出しました。
現代音楽の作曲家という看板を立ててしまうと、たまにはそういうのではないことをやりたくなっても、看板に出している名前ではできにくくなるというのはあるのかもしれない。
また、歌人や詩人がアルバイトで官能小説を書く場合、官能小説用のペンネームを使う。ポルノの場合、アルバイトというより個人の楽しみで既に名のある作家が書いてしまうこともあるのですが、その場合もペンネームか、昔であれば作者不詳の地下文書として世に出回ったりする。作者不詳の官能小説には、じつはメーテルリンクが書いたのだと伝えられているものもありますし、『家畜人ヤプー』の作者・沼正三は本業が裁判官だったといわれていました。
新垣隆の記者会見を見る限り、ある時点で新垣の想定を超えた暴走を佐村河内がはじめて新垣は困惑するしかなかった模様で、悩みながらも事実を公表したのは立派ですよね。
佐村河内ですが、映像で見るとガタイがいい人に見え、どうせならプロレスラーになってもらいたかったなあ、と思いました。でも、単体で見るからそう見えるだけで、プロレスラーの横に並ぶと貧相な男なのかもしれませんね。

NHKの罪

うわさの佐村河内の実像に迫る! という形でドキュメンタリーを作ることもできたのではないでしょうか?
それをせず、むしろ、うわさの佐村河内にオレたちも乗っかる! という風に、結果的にドキュメンタリーを擬態した企画ものみたいな番組を作ってしまい、そのせいで大勢が佐村河内磁場に巻き込まれることになってしまった。
責任は重い。

おまけ

「永遠の0」大ヒットなどと共に、佐村河内人気も、大衆がベタな感動に飢えている、求めているということなのかなあと。これは何年も前からそうなのかもしれません。80年代以降大衆文化に瀰漫したシニシズムに食傷した人々が増えているってことになるのでしょうか。
今回だって、作品そのものよりそれにまつわる物語が消費されて云々、という物言いが既にテンプレ臭を放っていますもの。そういう見方自体がベタというか陳腐な物語に聞こえる。