ジョイス・C・オーツ『ブロンド マリリン・モンローの生涯』講談社 (訳:古屋美登里)

ブロンド〈上〉―マリリン・モンローの生涯

ブロンド〈上〉―マリリン・モンローの生涯

ブロンド〈下〉―マリリン・モンローの生涯

ブロンド〈下〉―マリリン・モンローの生涯

『ブロンド』は、フィクションという形を借りて「人生」を徹底的に蒸留したものであり、一部で全体を表す「提喩」が、本書の根本原理となっている。
(引用元:ジョイス・C・オーツ『ブロンド 上』講談社 p3)

マリリン・モンローを主人公にした伝記文学、実在した歴史上の人物の生涯を物語化した小説として読んだ。
読んでいて連想した他作品は曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』*1と、桐野夏生『グロテスク』*2。前者はマリリン・モンローという映画スターの生涯を日本に舞台を置き換えて物語化したもの、後者は東電OL殺人事件から材を取り作家が編み出した物語だった。現実に起こり大勢の人々の関心を集めた出来事に触発され小説を書くことで、作家はその事件に引かれる人々の心の震えを描き出し、私たちはそれを物語として読むことで動揺から脱け出せるのかもしれない、そう、長い小説を読み終えたという安堵感と共に。
1926年に生まれ1962年に没したマリリン・モンローの少女時代は戦前、映画スターとして活躍したのは1950年代。物語の背景となっている世の中は現在から見ると「昔はねぇ…」となる点も目につくのだが、同時に人の世はいつも同じ、何も変わらない、と思わせられることも充満していて、正直読んでいる間息苦しさを覚えた。
母と娘の関係、シングルマザーの貧困家庭、居場所の定まらない少女の不安、「若いきれいな娘」という外部からの目測とそう見られる当人の内面との齟齬、商品化され弱い立場にあるが故に買い叩かれる肉体、メディア上で認知される女と現実の生身の女のギャップ、この世で女として生き延びたいのなら黄泉を居場所にせざるを得ないこと、男には女という所与の逃げ場があるのに何故か女には逃げ場所がないこと……
女性一般が日常生活の中で体験する諸相がマリリン・モンローによってデフォルメされる。
行動に伴う内面の動き、時間につれて変容する思い、過去の記憶がぶれる様など、生きている人の感情のゆらめきをそのまま表出させるようなオーツの筆致が見事。
男社会では女は生きづらいというよくある話に見えて、じつはそれだけではない。
人類もまた哺乳類の一種である以上、生殖には女がどうしても必要になる。女なしでは人類は滅ぶ、未来が消えるのだ。男にとっては呪縛にも等しい大自然の摂理。なるほど人間も動物なのかもしれない、でも人間は畜生とは違う。女もまた人間である以上畜生ではない、残念ながら畜生にはなりきってくれないのだ、男が自分でそう願うような「人」にはなり得ないのと同程度に。
そしてそこから悲喜劇が生まれる。
この物語の中である意味真摯に“男”を貫いたのはカメラマンのオットー・エーゼ、結果的に劇中では卑しい悪漢になってしまっているが、彼がいなければ映画スター「マリリン・モンロー」はこの世に存在し得なかった。
そしてマリリン・モンローは男の夢だったのかもしれないが、彼女の夢でもあったのだ。
ところで、映画スターとしてのマリリン・モンローの魅力については、PLAYBOY日本版no.377の特集が様々な角度から分析していておもしろかったですよ。マリリン・モンローはいろいろな雑誌で特集が組まれてきましたが、その中でも白眉の出来、忘れないようメモしておきたくなるすばらしさでした。

*1:

砂糖菓子が壊れるとき (新潮文庫)

砂糖菓子が壊れるとき (新潮文庫)

*2:

グロテスク

グロテスク