新潮45炎上を見て思い出したこと

昔、朝日新聞社が出していた『論座』だが、装丁も変えてひとがんばりしていた時期。赤木智弘『「丸山眞男」をひっぱたきたい』がちょっと話題になって、はてなでもそれについて触れた記事がよく見られたことがありますよね。私もダイアリーに書いてるな。http://d.hatena.ne.jp/nessko/20070307/p1
ただし、残念ながら『論座』は書店から消え、いまはWEBRONZA https://webronza.asahi.com/ だけになっている。
さてその『論座』末期のことだが、『論座』で保守特集をしたことがある。その時期は相対的に売り上げが勝っていた保守論壇寄りの雑誌や本について、何故いまああいうのが売れるのか、執筆者たちはどのような考えを持っているのかを探ってみよう、という企画で、通常なら『諸君!』や『正論』に登場する書き手に寄稿させたり誌上で対談させたりしていた。「保守」と呼ばれる流行現象を取り上げて解剖してみようという姿勢は十分伝わるものの、誌面作り的には、こういう形で「保守」を取り上げて保守なら買う読者をも釣ってみよう、という目論見も感じられた。当時はそれくらい「保守」のほうが売れていたのだろう。
論座』だが、いつも書評欄はすばらしく、誌面を飾るイラストも含めて全体に洗練されており、他の月刊誌とは一線を画す「さすがは朝日」な物件だったのだが、売り上げ増にはつながらなかったようだ。もう、朝日のお仲間のようなエリート層はとっくに雑誌など読まなくなっていたのだろう。
そして、保守系雑誌がよく売れていた、というのも今は昔の物語。全体に雑誌が売れなくなっており、コアなウヨ層をつかんで続いている雑誌も、それこそムーのようなごく一部のマニア向けのものになっている模様、でもそういうマニア向けの雑誌はあっていいし、マニアのためにだけでも続いてくれないとますます雑誌というジャンルが痩せていくのでは。
雑誌だから載せたものに対して激しい批判が来ることはあるだろう、でも、それはそれ、そういうこともあるし、それがなければ雑誌を世に出すのもせがないというもの。
つらつらと巷の雑誌好きの一人としてそのようなことを思った。
雑誌、商業主義になってだめになっているという声もあるけれども、戦後の大衆文化は商業主義によって隆盛したのだ。映画もロックもマンガもそれからある種の小説群も、全盛時はお子様向けのクズ扱いだったが、大勢が買うから金になるから、それで世間的には一目置かれるようになり、世の中に居場所を確保できて、文化的な評価はその後なされた。雑誌もそういう大衆文化物件のひとつであった筈で、商業主義に走るからよくない、と言われたり言われても仕方がないと世の大勢が見なすのなら、それは戦後大衆文化の時代がすでに過去の遺物と化した後だからなのだろうね。

余計なことになりますが

週刊文春より週刊新潮が下品なのがデフォルトなのだが、その一方で、週刊新潮のほうが週刊文春よりは文章はうまいなと思うことが多い。そして、文章がうまい、文章がいい、というのは、私にとっては何よりすばらしいことだったりするんで、週刊新潮がだめだとは私には言えないな。