新潮の看板は新潮

新潮 2018年 10 月号 [雑誌]

新潮 2018年 10 月号 [雑誌]

その妹版みたいなかんじで小説新潮がある。
小説新潮 2018年 10 月号 [雑誌]

小説新潮 2018年 10 月号 [雑誌]

新潮45は創刊が1982年(Wiki)とわりと新し目。名前の付け方から、昔あった宝島30という雑誌を思い出したりしたが、宝島30も今となっては世間の右傾化に棹差した物件と見なされるのかもしれない。(当時は傍流から主流をつつくみたいなかんじだったが……)雑誌の評価は書き手をどれだけ育てたかで決まる面があるので、そういう面では宝島30はわるくなかったのではないだろうか。
今回の騒動だが、作家小説家の類が件の小川記事は別に痴漢の権利を主張したり痴漢を擁護したものではないと誰も公で言わなかったところで、ああそういう流れだったのね空気読むとそう立ち回るのが“常識的”よねえ、“女”のことだもの、それで自分がどのようにしてるのかぜったいに認められないのよねえ、ぜんぶ“女”のせいにすれば済むからねえ、という諦観に満たされた。というわけで、もうあいつらには同情などしない。これから何があろうと因果応報自業自得ですよ。
いま、『世界』で隔月連載中の桐野夏生「日没」だが、こわいくらいアクチュアルになってきてるんじゃないかしらね。
今月はお休みだったから、来月掲載になります。『世界』も読んでみてくださいね。

追記

新潮45杉田水脈を擁護する文章を書いていたのは藤岡信勝であって、小川榮太郎のは昨今の風潮に対する違和感をつづったもので、その違和感がどんなものかを伝えるために痴漢云々というたとえを持ち出して語っただけで、別に痴漢を擁護などしていない、小川的には痴漢も見苦しいので表でそんなことするなという話にしかなっていない。小川的感覚はけっこう大勢に共有されているのかもしれない、というのは、ゲイとしてカミングアウトして政治活動をしようとしている松浦大悟の文章を読めばわかる。彼は地方の高齢者と会って話をしたりした経験から、そういう人たちにどうすればわかってもらえるか、いっしょにやっていけるのかを模索していることを書いているからだ。

付記

これはもう作家の先生方だけではなく、みんな余計なことは言わないほうがいいね。いろいろ思うことあったり考えてみたりしても、それをいちいちネット上で書いたりすることはないのよねえ。ネットは女社会に男どもを飲み込むツールになりそうだしね。というわけで、私ももういらないこと書くのは控えよう。はてなダイアリーで気ままに思ったこと書くのはおもしろかったけれど、ダイアリー自体がもう終わるからね。

さらにつけたし

この新潮45休刊って、にっかつロマンポルノ閉館みたいな感じかもしれませんね orz
近年の書店の雑誌売り場のさびれ方は、映画館がどんどんさびれて閉館が相次いでいった光景を思い出させます。映画はその後シネコンの時代が来て、また雰囲気が変わってきていますが、雑誌はどうなるんでしょうね。スマホに押されて消えていくなら、それも世の趨勢ということになりますか。

追記 2018-09-27

ぐちぐちですが
今回の件で刺さったのは新潮社の異様なまでの低姿勢ぶりであった。以下はそれを見た下衆の勘繰りでしかないが、あれは、彼らは既に言論なんちゃらにはなーんの意味も力もなくなっている現状を巷の民よりよく察知しているんだな、だからとにかくもう低姿勢でやり過ごして、売れもしない雑誌ならさっさとつぶして、次のステージに進もう、という、そういうのを見せつけているように見えた。たぶんそれは正しい。まちがってはいない。ずれているのはピント外れの論評だか寸評だかをネット上でたれている輩の方である。
武田徹の連載ならこの後件の杉田水脈叩きの発端となったツイートからそれをめぐる現象まで分析する可能性がなきにしもあらずだったが、新潮45と共にその可能性もついえた。あとは、そう、まるで高校や大学で主要女子群にどう対処するか、そういったノウハウがネット上で見せつけられるだけだろう。こうして言論は女世界のアクセサリーと化していく。
戦後というか、全共闘以降になるだろうが、当時の一部若手男性文化人が、傍流から主流につぶてを投げるのに、または自分の居場所を拡張するために、しばしば女の子を利用した。「だって女の子はこんな風に言ってますけど」と。そして、彼らから見て踏める女はその瞬間の自意識を保つためだけにでも踏んだり蹴ったりちぎったりさらし者のいけにえにしたりして、ぼくらの世界をなんとか仮構して自分を立たそうとしてきた。その果てがこの現状である。やってきた連中は年齢的にもう鬼籍に入っていくだろうからどうなろうとどうでもいいのだろうけれども、ともかく、復讐は神様がしてくれる。だから、ほかの人たち、腐らずに、自分ですることしたいことを見つけて、日々楽しんでやっていこう。
どうしても耐えられない人もいるかもしれない。それはそれで、もちろんいていいし、いてもおかしくないし、おかしくないんだって分かる人はいるから。