『世界』のバックナンバーより

最近ニュースで、アメリカでのアジア系へのヘイトクライムや、警官が黒人をあやまって射殺した事件の報道が続き、それがいつも監視カメラや現場に居合わせた人がスマホで撮った映像、警官の場合は装着しているカメラの残した記録映像、つまり現場をとらえた映像と共に伝えられるのを見て、すずろに思ったことを書いておきます。思い出した『世界』の記事をメモ、といったほうがいいかな。

 映像に残される記録、監視社会、という発想がまず出てきます。『世界』2021 April no.943 の特集「デジタル監視体制」というのが、現時点での監視化が進む社会の問題点を整理して取り上げていました。

 さらに前のバックナンバーから、監視カメラについてのこの文を引用。『世界』2019 June no.921 より。

公共空間に設置された監視カメラは、そのまなざしの範囲に起こるすべての現象を捉えるのだが、そうした現象のなかで私たちが実際に目にするのは、逸脱が起きた場面だけだ。監視カメラとは、膨大な撮影時間のなかで問題が起きた一瞬だけを切り取り、まるで恣意性などないかのように、私たちにそれを展示する技術である。監視カメラによって、公共空間に起きる他のすべてを無視し、逸脱だけを取り上げて糾弾することができる。統計的な効果については未検証の部分が多いにもかかわらず、監視カメラがこれほどまでに普及したのは、私たちの「見たいものを見る」という現代的な欲望に見事に合致したためだと考えることができる。
(引用元:『世界』2019 June no.921 朝田佳尚「自己撞着化する監視社会」p.159)

 この部分は前にもこのブログで引用した気がするな。自分にとって、わかりやすい説明となっていたから。監視カメラというと、京アニ放火事件が起きた時、犯人の青葉が通りを歩いている姿の映像がニュースで出て、それを見ていて、これたまたま青葉の姿が映っていたから放送してるんだけど、つまりここ通っている人たちはみんな録画されているんですよね? という、書いてみると分かり切ったあたりまえのことなんだけれども、それをふと意識してね。私たちが監視カメラが捉えた映像を見るのは、ニュースで事件が報道されるとき、その瞬間、はっきり映像で記録されているんですよ! みたいな例に限られるから、そうではないところでどう見られているのかってあんまり考えないじゃない? 関係ない、といわれればそうなんだけど、通り歩いたり店入ったりすると自分が映像にとらえられているんですよね。それはどう見られているのか、後で自分に対してどう使われるのか。

 それで、ちょっと飛ぶんだけど、そこから次のゴダールとランズマンのアウシュヴィッツ強制収容所についてのフィルムをめぐる対立を思い出して。『世界』2018 December no.915 から引用。

 強制収容所の映像が現実に残存していれば、映画は贖罪を果たしうるという発言に関して、ランズマンは仮借ない批判を加えてやまない。『ショアー』の監督が何よりも拒否するのは、映像が証拠としての意味を与えられてしまうシステムだ。彼がもっとも恐れているのは、ガス室の映像があれば大量虐殺は立証されるが、それがなければ立証されず、強制収容所での蛮行は虚偽であるという論法のなかで、映像が利用されてしまうかもしれないという可能性である。CG合成によりいくらでも架空の虚偽の映像を創造することができる現在、この「証拠の論理」の背後にある歴史修正主義的なイデオロギーに対しては、つねに警戒を怠ってはならない(事情は日本における、南京大虐殺従軍慰安婦をめぐる映像認識においても同じ)。ランズマンは同様に、アーカイヴの論理にも警戒を怠らない。彼が『ショアー』で目指したのは記録映像を蒐集することではなく、真実を開示することであった。また、その真実が覆い隠されているという事実を提示することであった。
 この点において、ゴダールとランズマンの間には対話の余地はない。強制収容所での虐殺の映像は、ゴダールにとっては贖われるべき現前でなければならない。だがランズマンにとってそれは構造化された不在であり、もしこの不在の黙契を破って「原初の光景」の映像が出現したとすれば、それは当時のナチスにあった窃視症的欲望の、卑小な継承者を満足させるだけのものにすぎないだろう。『ショアー』は、こうしたポルノグラフィックな覗き見主義を断固として拒絶することで、危機的な場所でかろうじて成り立っているフィルムなのである。こうしたランズマンの断念からすれば、ゴダールの映像観は安全地帯にいる者の多幸症の症例にすぎないと見なされてしまうだろう。
(引用元:『世界』2018 December no.915 四方田犬彦「映像世界の冒険者たち 第8回 復活の時に映像は到来する - ジャン=リュック・ゴダール(後編)」p.270-271)

 

 ランズマンの恐れ、というのは、いま誰でもが持たなければならないのかもしれない、証拠映像があたりまえになってしまっているから。

  また、以前アサド大統領がアメリカのYahoo!の取材を受けた時、取材者がヨーロッパに脱出したシリア人から得た情報として、反体制派として捕らえられた人たちが拷問など違法な取り扱いをされている、罪もないのに逮捕された者もいる、と証拠としての収容所の写真を見せて問いただしたとき、アサド大統領は「その写真? ちょっと見せて」と写真を受け取って眺めた後、「これはほんとうにあなたがいっているような場所で撮影されたの? フォトショップで加工されたりはしてないの? その証明はできるの?」と逆に質問してきて、これじゃ証拠にはならないよね、と返した場面も思い出しました。

 

すずろにということで、ほんとうにすずろになってきました、このへんでやめたい。

『世界』のバックナンバーは、後になってから思い出して読むとよくわかってきたりしますね。


 

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