小林信彦『昭和の東京、平成の東京』ちくま文庫

 

題名通りの内容。日本橋で生まれて東京で暮らすエッセイの名手・小林信彦の "生活と意見"、「ブックガイドとしての <あとがき>」から著者本人によるこの本の紹介を引くと

 ひとことで言えば、この本は、ぼくの東京に対する思い入れ、こだわり、悲しみ、やせ我慢、怒り、楽しみ、笑い、その他もろもろの感情を一冊に押し込んだものです。書いた時も、1964年(東京オリンピックの年)から2001年にまで及びます。
(引用元:小林信彦『昭和の東京、平成の東京』ちくま文庫 p317)

さて、この中から、「不安のなかの正月」と題された、1992年の正月に書かれたエッセイの一部を引用しておきます。出だしはこうです。

 一年の計は元旦にあり、という言葉があるが、ぼくのように衝動的に生きている男でも、年末年始には少しはモノを考える。
 少しまえだったら、<ソ連> で政変がおこっても、おれの知ったことじゃないと思っていたのが、この数年、そうではなく、切実になってきた。
 (引用元:小林信彦『昭和の東京、平成の東京』ちくま文庫 p194)

 基本  "小林信彦の生活と意見" ですから、新聞や報道番組で気になった政治関連のものごとを取り上げても、政治学者のような解説ではありません。ひとりの市民の時事についての感想です。小林信彦のファンなら、小林信彦がどういうタイプの作家かは分かっているので、ああこんな風に思ったのか、と興深く読めます。都市に住む基調はリベラルで教養もある市民の感想のサンプルのひとつですよね。

 ベルリンの壁が崩れたとき、テレビで特別番組があった。みんながばんざいを叫ぶ中で、アメリカの学者一人と宮沢喜一氏だけが首をひねっていた。宮沢氏は腕組みをして、「むずかしいですね……」とだけ言った。ドイツの将来だけではなく <ソ連> のことも考えての発言にちがいない。
 (このヒトは、これだから大衆性がないんだ)と、ぼくは思った。(パチンコ屋の開店に花輪を出すようなものじゃないか。ひとこと、めでたいと言ってやればいいのに)
 宮澤喜一氏がどこまで先を読んでいたのか、ぼくには分からない。しかし、その態度は <まったく悲観的> と言ってよかった。
 そして――予測は当たったとみるべきだろう。
 (引用元:小林信彦『昭和の東京、平成の東京』ちくま文庫 p195)

 小学生だったとき真珠湾攻撃があり、戦時中は世界情勢を伝えるニュースにいやでも過敏にならざるをえなかったが、敗戦でそういう過敏症から解放されたと自身の体験がつづられ、このエッセイはこう締められる。

 ぼくは極端なまでに <自分の穴の中で> 生きてきた。スターリンの死、キューバ危機、ヴェトナム戦争、すべて関係なし、といっては大げさだが、まあ遠からずであった。ベルリンの壁崩壊でさえ、なぜテレビはさわぐのだろうと思ったほどだ。それでも、<歴史の流れ> であるのは理解できた。
 それが――ロシア共和国誕生のあたりから分からなくなった。分かっているのは、明日のことは分からないという一事だけだ。これでは一年の計などたてようもない。
 世界中が無明の闇に入ってしまった。しかし、この感覚には記憶がある。太平洋戦争中のある時期とよく似ている。
 (引用元:小林信彦『昭和の東京、平成の東京』ちくま文庫 p196)

全編は本書で読んでみてくださいね。

 いま、いやでも国際情勢が気になって新聞やテレビのニュースを見てしまう人は増えているでしょう。そういう気持ちを整理したいとき、小林信彦のエッセイは参考になるかもしれません。