「ゼロ・グラビティ」のアルフォンソ・クロアン、「レヴェナント」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、「シェイプ・オブ・ウォーター」のギジェルモ・デル・トロなど、近年注目を浴びた映画監督がメキシコ人であることに触れ、日本ではあまり認識されていないメキシコ映画の豊饒さに着目、1月7日から始まった国立映画アーカイブ「メキシコ映画の大回顧展」を紹介している。この大回顧展はメキシコ映画史におけるフェミニズム的側面に光を当てているそうです。
『世界』2月号で読んでみてください。
さて、ロートル洋画ファンにとっては、メキシコ映画というと、まずルイス・ブニュエルの名前を思い出すのではないだろうか。スペイン人で「アンダルシアの犬」でデビュー、そのためシュールレアリストと見られがちだったが、ハリウッドを通過してメキシコに渡る。メキシコで「忘れられた人々」を始め数々の映画を撮り、1963年以降はフランスで活躍、「小間使いの日記」「昼顔」「悲しみのトリスターナ」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「欲望のあいまいな対象」といった作品を発表、そのため日本の洋画ファンにはフランス映画の監督という印象が強いかもしれない。
フランスで撮られた映画はいずれも、ちょっとシニカルな笑いを誘うマンガ風だった記憶があるのだが、ブニュエルという映画作家の名前は洋画ファンには知られており、ブニュエルのメキシコ時代の映画を特集した上映会も行われた。
メキシコ人ではないかもしれないが、ブニュエルはメキシコと縁が深い映画監督だった。
『世界』では、しばしば「多様性」に目を向けよう、敏感になろう、といった流れで、中南米やアフリカの文化、または女性作家の作品が紹介されるきらいがありますが、そういう取り上げ方が、逆に西洋白人男性文化の中心性を補強してしまう印象があって、なんとかならんのかのう、と思ってしまうのです。(また、中心にいられる者だからこそできることは表現でもあるので、そこはちゃんと評価しないとすべてが低きに流れて終わる結果もありそうだし)
映画なんかは大衆向け娯楽ですので、日本もそうですが、だいたいは作って公開されるその国内向けにどこでも作られていて、興行的にもその国ではその国のものがいちばんいいのがふつうでしょう。流行歌もそうですよね。たいていそのときその場で消費されるだけですが、だからこそいい、意味がある、そういうものだったりするし。
映画史や、映画という表現分野を研究している大学人向けの記事が『世界』ではどうしても多くなるのかもしれませんが、四方田犬彦の連載はもっと映画寄りだったし、そういうもののほうが映画ファンとしては読んでておもしろいのですよ。
ある年代から下の大学人は、学校で「多様性」「フェミニズム」「有害な男らしさ」うんたらを習ってお勉強させられて、そのせいでかえって支配的白人男性文化圏内に取り込まれたりするんじゃないかしらん、と、うがった見方をしてしまう今日この頃です。
(リア充からすると、表現自体が負け犬の所業になるのかもしれませんしね……)
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