『世界』2025年10月号 山本昭宏「彼女たちの戦後 連載第12回 吉永小百合 「理想」は死なない」

 

1945年に生まれ、子役からアイドル、そして大女優と、戦後という時代と併走した映画スター・吉永小百合。大スターではあるものの、女優としては作品にめぐまれていない感がある。彼女はいまも戦後の日本で唱えられた「戦争を起こさない」という理想を語り続け、いまとなってはそれは揶揄の対象にされたりすることもあるが、吉永小百合は現役のスターであり続けており、そのことで戦後の理想は潰えたりしたいないことを体現する存在になっているのではないか。

 くわしくは『世界』10月号で読んでみてください。

 

映画ファンとしては、この吉永小百合という映画スターは、だいじにされるべき日本の宝のひとつであると見る。稀有な存在であることはまちがいない。

 ここからは私個人の感想になります。

 吉永小百合は良性の天然ボケ美女、その極北であろう。通常女性が備えているいわゆる”女性的”なる資質を生来欠落させたまま、しかし傍から見るとその姿が美女である、という存在。そしてふつうに行動しているだけの吉永小百合は、傍から自分がどう見えているかを気にするような自意識が極薄な人にも見える(そういう自意識が無いといってもいいくらいに)。

 女優としての価値は、無形文化財というよりは特別天然記念物に近いものとなり、希代の女形である坂東玉三郎が映画監督として吉永小百合を起用するのは、女形では再現不可能な美女という大自然の驚異を記録したいからではないだろうか。

 吉永小百合の役者としての評価はむずかしい。かんたんにだいこんと切り捨てられない天稟がある。たとえば「夢千代日記」など見ると、吉永小百合は芸者の役になりきっているとはとてもいいがたく、何をやっても吉永小百合でまったく「芸者」に見えないというところと、しかしそれと同時に、「仮に吉永小百合が芸者になったのなら、こういう芸者にしかなれないだろうな……」と思わせる胃にもたれるようなリアリティがあるのだ。 吉永小百合しか体現できない芸者もたしかに存在するのだ、と、知らされる。そういうところをいいとするかしないかで評価が分かれる女優だろう。

 だから、吉永小百合は唯一無二のスターなのである。

 1970年代以降、日本映画が低迷したこともあり、吉永小百合はたしかに作品にはめぐまれていない。たとえば、「天国の駅」「長崎ぶらぶら節」は、吉永が演じた役をNHKのテレビドラマでは市原悦子が演じており、役柄としては市原が演じたほうが適するものである。「母べえ」もそうかもしれない。

 「細雪」「映画女優」は、さすがは市川崑監督といったかんじで、吉永小百合にとってもラッキーだった。「時雨の記」「母と暮せば」も手堅い成功作。ただし、もはや観る側がほめかたがわかっていないというか、うまく語ってくれる人がいなくなっているような。

 自分としては、子どもの頃テレビの昼の時間帯で放映したアイドル時代の浜田光夫と出ていた学園ラブコメが、吉永小百合特有の天然ボケ成分を活かしたコメディになっていた記憶があり、なので、タモリ吉永小百合でシニアラブコメを作ってみてはどうかと夢想したりする。監督は三谷幸喜で、正調コメディに仕上げてもらいたい。

 

 それと。吉永小百合をこういうかたちで大スターとして維持し続けた日本男児の感性と力は、世界レベルで見ると、珍重に値すると思いますよ。それも戦後とともにフェイドアウトしていくのかもしれませんがね。