はてなブックマークで上がってきていたある記事および関連記事等を読んで、思い出したこと。
昔、渋谷陽一がロッキング・オンで書いていた。彼は酒は飲まないそうだが食べるのは好きで、グルメ情報やグルメ本をよく読んでおり、当時マスコミ上で人気のあった某グルメ評論家のことをほめていた。そして、しかしグルメ本特有の気取りにはなじめないとも書き、それから個人的感想として、「そもそもグルメ情報はトルコ(ソープランド)情報と同じようなものではないか。あの店のここがいい、というのは、あのトルコの○○ちゃんのマットプレイは気持ちいい、というのと同じようなものではないか」だから、グルメ語りには羞恥心が必要だろうという趣旨の発言であった。
私はそれを読んで違和感を覚えた。
しかしその後も、大抵東京育ちのミドルクラス以上のインテリ風の男がしばしば同種のことをマスメディア上で発言しているのを見て、まあ彼らがいわんとするところもわからなくもないし、でも、やっぱり私は彼らにはなじめないなあと思った。
自分で料理店めぐりした本を出しておきながら、自著紹介コーナーで「食べるってとっても恥ずかしいことだと思ってるんですよ(笑)、だからこれは恥の記録でもあります(笑)」などとへらへら語っている男性著者を目にしたときは、殺意さえ覚えた。
農業漁業畜産業及び料理人にあやまれ。そんなに食うのが恥ずかしければ、もの食うのやめろ。恥ずかしいのにどうしても食いたいのなら、便所入ってドア閉めてもの食え。
あとひとつ。
東電OL殺人事件の真の闇は、あんな化け物みたいな女でも買う男がいた、という現実である。私は、男でなければわからない闇がある、と思った。男の身体構造からくる性欲求、その欲求から免れ得ている女という異性に対する見方、たぶん男でなければ実感しえないものがたしかに存在している。男が売春婦に抱く憎悪は男でなければ理解し得ないものなのだろう、と。
まだほかにもあるけれども、軽々に売春を他の仕事と同列に見ることは私にはできない。それができる人もいるということは「そういう人もいるのか」と分かることはできても。