ミスティック・リバー

DVDで鑑賞。
貧困地区で育った三人の少年が、成長して殺人事件に巻き込まれる。
監督:クリント・イーストウッド、脚本:ブライアン・ヘルゲランドは『ブラッド・ワーク』と同じ(参照)。そのせいか、映画の雰囲気全体が似ている。音楽は必要最小限といっていいほど控えめ、その場面から聞こえてくる自然の音、風景の音が効果的に使われている。
舞台になっているのは下町、アイルランド系の人たちが多く住む町なのではないかと思われるが、ヤクザみたいなのが町の顔役気取りで出張っているような地域。
ジミー、ショーン、デイヴという三人の少年が路上で遊んでいると、大きな車がやってきて、中から手錠をちらつかせた男が降りてくる。少年たちがいたずらをしているのを見咎め、叱り、三人のうちデイヴという子だけを「母親の元に連れて行く」と車に乗せて走り去る。手錠を持っていたので子供たちは警察だと思ったが、じつはそうではなかった。デイヴは傷つけられて戻ってくる。
成長した三人は、ジミーは元ヤクザの商店主、ショーンは刑事、デイヴも結婚して子煩悩な父親となっている。それぞれが自分の生活に忙しい。ところが、ジミーの娘が殺される事件が起き、それをきっかけに三人がまた引き寄せられることになる。
謎解きのおもしろさもあるのだけれど、貧困地域で育った三人の男の、特に家庭的な方面への思いに比重がかかった作品になっている。家族や地域への、愛憎半ばするような、諦念も含みこんだ思い。
イーストウッドはうまいので安心して見ていられる。けれども、『ブラッド・ワーク』と続けて見ると、なにかクセのようなものがあるなとも感じた。どんな作家でもクセはあるんだといわれればそれまでだけど、イーストウッドはあまりクセを語られることがないような気がする。
まるで大昔のよく出来た時代劇を見ているようなかんじが強くする。貧困地区を舞台にしたせいで、昔の時代劇に出てくるようなキャラがいてもおかしくないですよ的に出てきてるし、芝居を楽しんでる間はそれで十分なのだが、アメリカ人が見るとどう見えるんだろうな、とも思う。いくらなんでも芝居臭すぎる、と思ったりはしないのだろうか。いや、芝居臭さを堪能させてくれる映画の楽しさはあるわけで、だからいけないというのではないんだけど、例えば、これと近いこと日本を舞台にやったらどうなるんだろう、と想像してしまうのね。演出も、場面によっては異様に時代劇っぽいのだが、そうではない場面とすんなりつながって妙な突出感が生じないのはさすがだ。
それと、最後に女の人に生きることそのものを肯定させることで、男の登場人物は「ぼくはしっかり悩みも抱えています、鈍感な人間じゃありません」という風情を漂わせたまま、「とりあえずこのままのぼくでいいんですよね(あなたがそういったんであって、ぼくはそれでいいのかってちゃんと考えたりはしてるんですよ、ぼくじゃなくて、あなたが、それでいい、といったんだよ、あなたがいったんだよ)」と、責任をちゃっかり女に転嫁してしまうきらいを感じるのよね。イーストウッドには、いつもそれを感じる、と言っていいだろう。
この作品で描かれた男たちの心情は、ミステリーの色彩濃いものになっているとはいえ、普通の働く人たちが濃淡の差はあれ感じるような類のものだし、女が現実世界で果たす役割というのもじっさいこんなものだろう。だから、リアルな感動を呼ぶ作品になっている、といわれるのだろうな。
でも、この原作を他の人なら、たとえばスピルバーグなら、どう描いただろうか。あのスピルバーグなら大人を許せない少年をどう描くだろうか。そんなことを考えてしまった。