脳内ニューヨーク

DVDで鑑賞。
妻子に出て行かれてから、演出家の感覚がおかしくなっていく。
ケイデン・コタード(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、小劇場で演出をしている。しかし、妻との関係はうまくいっていない。仕事面では賞を取り多額の賞金を得てさらに前進が期待できるが、絵描きの妻はベルリンで個展を開くことをきっかけにして幼い娘を連れて彼のもとから去ってしまう。
ケイデンは、これまでも些細な体調不良をうったえては医者にかかり、神経科で検査してみてはといわれていたが、妻子と別れたことを境にして外界との不調和が目立ち始める。彼はそんな自分の状態をそのまま劇化しようと試みるのだが。……
ガールフレンドや医者や知り合いとケイデンが会話する端々から、彼の時間感覚がずれているのがわかる。外から来る通知、雑誌上で目にする画家としての妻の姿、会えなくなった娘、いずれも当人にはしっくりと受け入れられない違和感を伴っている。
テレビを見れば映っているマンガの主人公はケイデンに似たキャラクター、インターネット上で検索して探し出したページに自分の姿が出ていたりする。
自分はほんとうに生きているのか。この自分の日常が現実なのか。自分が認識している外界は存在しているのか。あやしくなってきた自分自身をそのまま演劇化しようとするのだが、いつまでたっても上演の日は来ず、劇団員はぼやく。「もう17年にもなるのに。」
二番目の妻になる女優と共にケイデンを演じる役者を演出するケイデン、雑誌を通して知る出て行った妻と娘の様子、再びニューヨークに現れた妻の留守中のアパートに入り他人にあてられたメッセージを聴くなど、自分が知っていることと、自分に深く関わりがある筈の人たちとの間のすれちがい、現実をそのまま受け入れることができなくなってしまった男の姿が劇化して描かれる世界。
劇中劇と劇の交錯、一場面を戯画的にまとめる演出と台詞の妙、美術のよさで退屈せずに最後まで観られたが、正直、おはなし自体は、作家として認められるような能力に恵まれて、そのことにあたりまえに自信を持ってしまった男の、ぼくはこんなにいい気になっていてもぼくが望めば切なげに見えたりもしますよね(見えないんだったらおまえは程度が低いんだぞ、そう仲間と言っても世間はぼくのことを怒らないで、おまえのことをバカにして嗤うよね、世間がそうだってことだけはぼくはじつはよく知ってるの)という、ああまたですか、そうですか、という、そんなかんじだったわ。
劇中の光景や景色の作り方がいいんで、映画としては楽しめましたよ。だから、感想聞かれたら、おもしろかったよ、と答えるけどね。実際、最後まで飽きずに観たんだから。最後に流れる歌も作品によくマッチしてましたしね。
ケイデンを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンがいいね。お腹が出た中年だけど、顔がなんかかわいらしくて、全体の体型的にも、ぱっと見の印象がかわいらしいかんじで描かれたイラストの中年男が肉体化したようで、そのせいか見ていてこの主人公にはあんまり意地悪なこと考えたりしたくないなと思ってしまう。別の役者がやってたら、映画全体の感想がもっとちがったものになったかもしれませんね。
しかし、あれだな。この種の男はたぶん孤独を知らないまま死ねるんじゃないかな。それも、アホな有象無象とはちがってかしこいぼくちゃんだけはほんとうの孤独がどんなものかわかっちゃってるんでちゅよ、そう勘違いしたまま。いや、ほんま、安心して逝っていいよ。そう思うわ。