ペイルライダー

DVDで鑑賞。
悪徳鉱山主の無法に一人の牧師が立ち向かう。
ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア、カーボン峡谷に砂金堀りの人々が暮らす小さな集落があった。周辺の峡谷は鉱山会社を経営するラフッド一家に買い占められ、水圧を利用した機械を用いて採掘されていたが、その採掘法は禁止になる見込みだとわかった。ラフッド一家は、まだ金が採れそうなカーボン峡谷に目をつけ、そこに住む人たちを立ち退かせようと嫌がらせを繰り返す。
ラフッドの手下に集落を荒らされ、愛犬を殺された少女が、森の中に愛犬のなきがらを埋めてつぶやく。奇跡が起きますように。恐怖が去りますように。生きていけますように。少女は聖書を読み、黙示録の青ざめた馬に乗った死の使いの箇所に引きつけられる。
雪山から一人の男が馬に乗って降りてきた。町でラフッド一味に襲われたカーボン峡谷の男を救い、共に集落にやってくる。背中に撃たれた傷跡があるその男は、牧師だった。しかし、ケンカに強く、ラフッド一家とやりあって打ち負かす。カーボン峡谷の住人は牧師の登場に勇気づけられ、ラフッドの無法に立ち向かう決心を固める。
青い空、雪の残る山、緑の森、赤茶けた土。アメリカの広大な景色、絵に描いたような西部劇の背景が目に染みる。土ぼこりをあげて走る悪漢集団の馬のひづめの音が物語の始まりを告げる。
正調西部劇の意匠をこらして展開するのは、西部劇を基調にしながらもマカロニ・ウエスタン、日本の時代劇、ホラー、劇画など、娯楽作品の粋とその背後にある神話やオペラや歌舞伎の響きまで咀嚼して貪欲に吸収したのち生み出された、クリント・イーストウッドの西部劇だった。
このあたりは、黒澤明の時代劇が、時代劇の保守本流ではなく、時代劇の意匠を借りた黒澤アクションに見えるのと似ている。
イーストウッドは、ハリウッドでは二流のスターだったが、アメリカではゲテモノと見られていたマカロニ・ウエスタン出演に際して自分で創意工夫を凝らし、本来マイナスになる要素を自力でプラスに変えて映画スターとして飛躍する。そして映画監督としても才能を発揮、次々と作品を撮るようになった。
この「ペイルライダー」を観て思ったのは、正調西部劇の背景で見ると、西部劇の主役として、アメリカ映画のヒーローとして、イーストウッドは異端に見えるということ。背は高いがひょろりとして見え、声もよくない。顔は正面から見ると常にまぶしそうに目を細めているように見えるし、笑顔にもそこはかとない下品さを感じる。正統派のヒーローとしては違和が残るのだ。
しかし、この作品では、その正調西部劇で生じる違和感が、謎の神父が放つ超俗的な雰囲気を高める方向にうまく活かされていた。ここでも負を正に変えていた。監督イーストウッドは、役者イーストウッドの使い方をよくわかっているということか。
「ペイルライダー」にくらべると、「許されざる者」のほうが、アメリカの西部劇を裏側から描くといった趣向で、裏ものとはいえアメリカンテイストだったな。
それからなぜか戦争映画の「硫黄島からの手紙」がものすごくマカロニ・ウエスタン臭かったのだが、あれはそれで成功していたと思う。
イーストウッドは、スターとしても監督としても、稀有の存在だが、日本の一部では持ち上げられすぎているような気がしてならない。持ち上げているのが映画通のおじさんたちなので、それはそれで傾聴に値するのだが、彼らは自分がイーストウッドにそこまで入れあげるのは、自分が男だからだとか、こういう年齢だからだとか、好みがこうだからだとか、なにがしか自分自身の特性によってそうなっている面があることに気がついていなさそうなのだ。
もっとも、おじさんたちにとってそんな対象にできるのがイーストウッドしか存在しなくなってしまったというのが現況なのかもしれず、そうなると、時間が経てば解消される偏りでしかないのかもしれない。