体育の日に思う

体育とはまったく関係ないことになるが題を思いつかないようなぐだぐだなので。
従軍慰安婦南京事件の実像を否定したがる人たちというのは、少なくともその事実がゆるしがたくおぞましいものであるということだけは察知している。その責任を問われると自分の人間性を全否定されるかもしれないと被害妄想に襲われるほどに直観してしまっているのだ。
だからといってそれをないことにしようとするのは、事実と向き合わないとそしられても仕方ないだろう。
しかし、その一方で、あっさり事実を認める人たちというのは、それでは事実と向き合い反省しているのだろうか。
過去の出来事で自分には関係ないし、歴史をふりかえればじつは大したことのうちには入らないし、なにより認めたところで現在の自分が脅かされることはないのはわかりきっている、むしろ認めてかしこげに物分りのよい振る舞いをしたほうが得だし、それができない連中より優位に立てるので何かと都合がいい。だから、事実を認める。認めたところで、自分は何も揺らがない、関係がないから。そういう話を聞いても「ふーん」としか思わないし、だから、認めるのは平気だよ、ひどい目にあってるのは他人だから、認めても自分が被害者になることも加害者にされることもないから。
こんな人ばかりだと言いたいわけではないし、動機がどうあれ事実を認めないと何も始まらないわけだから、歴史修正に走るよりはよほどマシだろう。それはわかってるんだけれども、もやもやは残る。
もやもやしているのが人の有り様の常態なのだろうが、正しいリベラルの人たちは傍目にあまりもやもやを感じさせない人が多いな、不器用で稚拙なせいで悪目立ちしたウヨクを正義の名の下にばっさり切り捨てることを定期的にすることで、自分のもやもやも解消してるのかもなあ、と、思ったり。
そして適当に上手にもやもや解消してるほうが、体育にはいいんだよな。(なんとかつながったか)