石原慎太郎「夢々々」(『文學界』2011年3月号)

「何故か同じような夢を見る。夢の形はいくつかあるのだが、何故また同じような夢なのかわからない。」
そう書き出してはじまる、様々な夢と夢によって引き出される思い様々。
まずヨットで走る夢、走るのは水上ではなく陸路で夢でしか有り得ない光景と場面が続く。この小説で読む夢の中の世界が自分の見た夢を思い出させる。ヨットで走る夢は見たことがないけれども、覚えている夢の中で見た情景は現実とは明らかに違う色彩と遠近とぼやけと音の聞こえ方を伴っていて、目が覚める前からああ自分はいま夢を見ているとわかっていたりする。そのような映像が読んでいると頭に浮かんできておもしろい書かれた夢の数々。具象的なのに非現実的な世界に登場するのはかつての知り合いたち。夢の中で会話を交わすも、彼らは既に故人になっている。
夢の中特有の奥行きで描かれる死んだ知り合い、その姿が引き出す過去の記憶。
夢に登場するのは昔知り合った者たちだけではなく、歴史上の人物もいる。また、特に思い入れがあった拳闘選手が出てきたりする。登場人物に合わせるかのように夢が劇画的に映画的に通俗的なわかりやすいドラマのようになったりもする。しかし、全体に静かな口調で語られる、夢でしかないとわかっている夢の光景だ。
夢としてリアルだと感じたのは、近くにいる女性が自分に話しかけているのに何を言っているのかが聴き取れない場面で、自分の見た夢でもこれは度々あった。話しかけられていて、声はたしかに聴こえているのに、聴き取れないのね。
夢の中に出てきた何人かの男性に対して作者は友情以上の共感を抱いていたといい、それを「いわば彼等のマチズモへの共感といったところだろうか」と書くのだが、ここで出てくる「マチズモ」は、その語義通りの意味合いというよりは、作者に友情以上の共感を抱かせた何かのことだろう。それを慎太郎は「マチズモ」と表してしまう。こういうところが無防備に見える。
しかし、他の同性に友情以上の共感を抱く作家というのは、どれくらいいるのだろう。自分ではない他の同性のことは、観察対象としての興味しか持っていないような人のほうが小説家だと目につきやすい気がする。「共感を持った」と書いてもその共感には括弧がついているようなかんじになる。これは男だろうが女だろうが作家ならほとんど変わらない。そしてそういう書き方をしてくれたほうが、読むほうは書かれた対象に共感したり反感を持ったり嫌悪感を抱いたりしやすかったりする。
この「夢々々」では、書いている石原慎太郎は言葉通りほんとうに「友情以上の共感」を相手に持っているんだなというのが伝わってきて、それがめずらしいと思った。こういうところも無防備というか素直というか、なんなんでしょうね。
最後の夢は怪談風で、高い笑い声が不快で怖い。慎太郎は負けずに怒鳴り返して、そこで夢の話が終わる。
故人の思い出が語られるなど、齢を重ねたからこそ真実味を帯びる一景がつながり、夢の中の出来事を描いているせいか怪奇幻想風味があって、読んでいてほんとにおもしろかった。慎太郎に興味がなくても、怪奇幻想小説好きな人は読んでみるといいんじゃないかな。
思えば「老い」の体験は、三島由紀夫が知らないまま逝った領域で、石原慎太郎はこれから三島由紀夫の知らない境地を描くことになるんですね。