「これみよがしの愚かさは、ほどのいい知恵よりも何倍か賢い。」(C)池内紀

奥谷禮子女史萌えが醒めかかってきて、なぜか思い出した一節。↓のような記事を読んだせいかな。
トリックスターとしての新星[奥谷禮子]氏。平成のマリー・アントワネット「下流社会だの何だの、言葉遊びですよ。そう言って甘やかすのはいかがなものか」(踊る新聞屋)
見出しの一節は、『歴史読本 臨時増刊 '89-3 特集 超人ヒトラーナチスの謎』(新人物往来社)に収められた池内紀による「鉤十字の火の祭典”焚書”」と題されたコラムの締めとなっているもの。
そのコラムでは1933年5月10日に行われたナチスによる焚書を取り上げ、その光景をとらえた写真について、異様な写真というより間抜けな写真だと評し、前列の戦闘帽の面々の後ろから燃やされる本を眺めている人々の表情、眉をひそめたり皮肉っぽい笑みを浮かべたりした様子を見て、恐れるというより愚行を笑う雰囲気を読み取っている。そして、こう続く。

 闇に沈んだこの人々のほうが、より多くトーマス・マンを読んでいた。ドス・パソスを知っていた。難解きわまるジョイスをひもといたこともある。
 彼らは暗い夜道をもどりながら、新しく権力についた者たちの <程度> を噛みしめていた。思いもつかぬことをやらかす連中である。この程度の輩が「詩人と思想家の民」の信頼を維持できるとは、つゆ思えない。早晩、風に吹かれたゴミのように消え失せる……。
 ナチス政権がこののち、なお十二年つづいたことはご承知のとおり。これみよがしの愚かさは、ほどのいい知恵よりも何倍か賢い。(池内紀
(引用元:歴史読本 臨時増刊(第三十四巻第六号) 新人物往来社

この雑誌では、ナチスとオカルトの絡みに焦点を当てた記事が多いのだが、いしいひさいちひさうちみちお、イワモトケンチ、なんきん、みうらじゅん、という豪華ラインナップによる「ナチ・ネタまんが大行進」が光る。
戸井十月遠藤ミチロウ川村毅の座談会もあるが、ナチズム的なものが日本に現れるかというとそれは考えにくい、とか、芸能界ならともかく政治や経済の世界では出ないでしょう、とか、1989年は牧歌的だったんだなと思わせられる発言が続く。おもしろいなと思ったのは、遠藤ミチロウのバンド名をスターリンにした理由。

遠藤
バンドの名前をヒトラーではなくスターリンで始めたのは、ヒトラーには個人としてのカリスマ性がすごく色濃くありますが、スターリンには薄いような、他を拒絶する感じがあったからです。もちろん、スターリンにもカリスマ的なところはありましたが、ただスターリンの場合、ヒトラーとは違い、組織としての冷たいカリスマ性のような気がします……。(引用元:歴史読本 臨時増刊(第三十四巻第六号) 新人物往来社