ダークナイト

ゴッサム・シティを舞台にバットマンとジョーカーが死闘を繰り広げる。
方々で話題になり、ネット上では滅多に映画を誉めたりしないような方が大きく取り上げて、善と悪、光と闇が絡み合って云々とずいぶん入れ込んだ感想をお書きになっていたので、どんな文芸大作なのかと妙な期待を抱いて観てみたら、やっぱりアメコミでした。アメコミでしょう、これは。暗い暗いと評判になってるけど、日本のマンガはもーっと暗いのがざらにありますものね。
もちろん、アメコミだからよくないわけではなく、アメコミのよさがスピード感を失うことなく現実感を伴って実写で再現されてしまっているところがすごい、そういう作品でした。
バットマンといわれても、私は1989年のティム・バートンが監督した『バットマン』一作しか観ていない者なのですが、『ダークナイト』も基本は『バットマン』と同じだと思いました。まず美術と音楽と技術が感動を呼ぶのですよ。
作品世界を実在させてしまうような美術と、時間を運んでいく音楽、そしてアクション映画のスピード感を保たせる技術力。その上で役者がいろいろやってくれるわけです。
ちがいといえば、『バットマン』はタケチャンマンぽいノリがあったけど、『ダークナイト』は徹頭徹尾シリアス路線。
ホワイソーシリアスな『ダークナイト』を観て感じたのは、バットマンという人物の変さですね。独自の信念を持って悪者退治に没頭しているんだけど、その独自性ゆえに孤高の人となっている。内面の負の部分を理性で押さえ込んでいる気配がある。
そんなバットマンの皮をはいでめくって、表と裏をひっくり返して人体に被せるとジョーカーになるのではないか。表皮に守られることなくむきだしになった内側が刺激を受けると過敏に反応せざるをえなくなる、それがジョーカーなのではないか。
今回のバットマンとジョーカーは、観ていてそういうことを考えさせられてしまうようなところがありました。
ジョーカーにはバットマンがその内側で何かを押さえ込み無理をしているのがわかる。だからそこをくすぐりたくなる。ここ、かんじるでしょう、ぼくみたいな顔してわらってごらんよ、ぼくにはわかるんだ、だってきみはぼくに似てるもの。ヒース・レジャーの演じたジョーカーからはなにかそういうかまって君体質を感じてしまった。
ヒース・レジャーはしゃべるときの目つきやひんぱんに舌を口からのぞかせるところなど、ちょっとやばくなった精神状態の人を思わせる表情をうまく出しており、ジョーカーを現実味のある狂気の人として演じていた。年が若いせいか、きもいメークをしていても地顔はかわいいかんじだし、このジョーカーには鬱屈を抱えた青少年が自己投影しやすいのではないか。うそかほんとかわからないが自分がこんなになってしまったのは子どもの頃うんたらと傷つけられた過去のおはなしなんかもしちゃうしね。
バットマン』のときはジャック・ニコルソンがジョーカー演ったんだけど、あれは観てても「ジャック、無理にメークなんかしなくていいのに」としか思わなかったからね。安心して悪役がまかせられるジョーカーとでもいうんですか。地顔のジャックのほうが怖かったりしそうだし。同じジョーカーでもずいぶん味わいが異なります。
ゴッサム・シティでは無差別テロが繰り返されるわけですが、ふと思ったのは自爆テロのニュースが絶えないイラクはこの映画の中の光景が日常になってるのかなって。そう思うとハリウッドの商魂は鬼のようにタフだと改めて感じ入る。

追記

野暮を承知で付け足しちゃいますが。
一番こわかったのはマイケル・ケイン扮する執事がバットマンに、悪事をやりたいがために悪事をはたらく犯罪者もいる、という例としてアジアでの出来事を話すところ。解釈の仕方によっては鼠小僧にもなりそうな盗賊の話なのだが、盗まれる側からすれば悪党にはちがいない。そして、バットマンのどう対処したのかという問いに対する執事の答えは極めて明快であった。
全編の流れの中ではジョーカーという犯罪者の異常性を確認する程度の場面として流されていたが、ほんの一瞬だが凍りましたよ。もちろん、ゴッサム・シティでは同様の処置はとれないのだが、アジアの田舎でならやっちゃったしこれからもやるんだろう。そう私は受け取った。