片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』集英社新書

 

目次

はじめに
第1章 小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか
第2章 「ロッキング・オン・ジャパン」はなぜいじめ発言を必要としたのか
第3章 「いじめ紀行」の枠組みを解きほぐす
第4章 「いじめ問題」への囚われのなかで
第5章 匿名掲示板の正義が全国紙の正義になるまで
おわりに

 

 小山田氏をめぐるスキャンダルは、単に彼個人にとってのみならず、不安定さと曖昧さを抱えた複雑な存在としての人間そのものにとっても不当だったと、わたしは考えているのです。その意味で、事情の複雑さを跡づける本書の試みは、単純化の暴力から人間一般を救う努力の一環をなしています。
 大部分において小山田氏の学校時代以降の現代日本に密着した考察を行っていながら、本書が視点の複数性と意見の多様性の圧殺をめぐるフランスの社会学者リュック・ボルタンスキーとドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントの議論を参照することで始まり、第二次大戦終戦直後に獄死した哲学者、三木清の有名な著作『パスカルにおける人間の研究』に焦点を当てることで終わっているのは、あらゆる困難にもかかわらず人間の複雑さを守らなければならないという、本書を根底で支える確信の一般的性格に関わっているのです。
(引用元:片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』集英社新書 p.11)

 2021年7月に起きた小山田圭吾をめぐるインフォデミック。あのインフォデミックを解きほぐし、何故あのような事態が引き起こされたのかを探る本。もはやインフラのひとつと化したSNSによる情報環境の変化と、そのことがもたらす危うさに警鐘を鳴らす本でもあります。岩波書店の note に連載された論考がもとになっている(『世界』👍)。
  オリンピックが間近に迫り殺気立っていたツイッターで、アングラネットで生成された切り貼りによる歪曲された小山田像が、反オリ勢力に格好の撒き餌と見なされ拡散されました。オリンピック自体を止めることはできない、そのうっぷんを小山田圭吾を叩くことではらそうとするかのような大炎上となりました。
  この本では、切り貼りのもととなった雑誌の記事をふりかえり、雑誌掲載時にどのようなものだったのかを読み解き、また学校での「いじめ」について、世間に類型的な見方が定着していくまでの過程も追っています。「いじめ」という概念が共有されることで救われた例もあるだろう、その一方で、「いじめ」という型があらかじめしつらえられたことで、個々の体験が型にはめこまれ雑駁に処理されることで生じた弊害も既に出てきているのではないか。
  昔の雑誌をていねいに読み直すところは、『世界』2023年2月号の桐野夏生「大衆的検閲について」の中の「一冊の本には、その中に大きな世界がある、という神通力があった」という一文を思い出さされました。雑誌も、大げさにいうとそれ自体が小宇宙みたいなもので、雑誌を買って読む者にはその中に入って楽しめるよろこびがありましたよね。
  また、固定化した「いじめ」概念にとらわれたままだと、自分をその型にはめこむことで無用な欠損を生じ不幸を呼び込む可能性がある、というのは、昨年話題になった千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書につながっていく面がある。(『現代思想入門』は初心者向けブックガイドの趣もあり、今こそ本を読もう! という機運が来てるってことになるのかな)
  インフォデミックの大きな契機となった毎日新聞記者によるウェブ記事で用いられた写真を添えることでほんとうらしさを演出する手法、あれはSNSだけでなく、たとえば犯罪実話ムックでも時々見かけますね。犯罪実話の場合、それであえて誤解をさそってあらぬ妄想を抱かせ興味をひっぱろうとしてやってたりします。
  とある大きな事件について、同種の手法で誤解を招いた結果、ネット上ではその事件について誤解から生じた与太が実話のごとく語られているのを目にすることがありますが、その事件についてはジャーナリストがちゃんと調べて書いた本も出ているので、「これにはこう書いてありますよ」とまちがいを指摘することができます。
  小山田圭吾炎上事件については、この本がそういう典拠にできますね。書いてくれてありがとうございました。
  
  インフォデミックについて分析・考察した内容ですので、小山田圭吾に特に興味のない方にもお勧めです。
  先の戦争については、民意を煽った媒体としての新聞の問題が取り沙汰されますが、これから起きる戦争にはおそらくSNSが大きな影響を与えるでしょう。SNSを距離をとって眺められる人が増えるのに越したことはありません。