テレビでは東日本大震災のニュースがずっと流れているが、香川県にいる私の日常はとくに変化もないまま、自分でしたことといえば釣り銭を募金箱に入れただけ。
ユープラザでは『和紙ちぎり絵展』。淡い色、濃い色、にじみあい重なりあって花や風景が鮮やかに浮かび上がる。今年は押し絵も展示されていた。お雛さまがいろいろ。その中で「うさぎの月宮参り」が印象に残る。好きな世界、月宮参りをするうさぎのドラマを想像する。
ユープラザうたづには図書館があり、そこで本や雑誌を読むのが楽しみのひとつ。
田辺聖子『ナンギやけれど……わたしの震災記』は、神戸に住む作家・田辺聖子が自分の被災体験と、阪神大震災チャリティー講演会で話したことをまとめたもの。あとがきに「震災に関するニュースを読んでいるうち、これはどうしても忘れないで、いい伝え、書き伝えしていきたいと思うことがたくさんあった」とある。被災地で田辺聖子が見聞きした人の動きも記されている。
震災後、もう晩夏になった頃、用事があり神戸へ出向く途中、火災で焦土と化した長田を通ったときのこと。田辺聖子は焦土のあちこちに花が点々と手向けられているのを目にする。そして遺族と死者のこと、また自身が女学生のころ体験した戦時下の空襲のことを思う。
目をさえぎる一物もない焦土は、非情ではあるが、でも空襲よりましだろうか。一見、空襲のあとに似ているが、空襲のときは花を手向け、水を供えてやる余裕すらなかった。残った生者も、いつあとを追うか知れなかった。絶望と虚脱となげやりな気分が人々を支配しており、元気のあるのは軍需産業の幹部と高級軍人だけだった。
トボトボと列をなして歩く空襲罹災者たちのうしろから車をとばしてきた憲兵が、焼け焦げて残っている電柱(木材だった)に、
「軽挙妄動するな」
と書かれたビラを貼っていったっけ、軽挙妄動しようにも何にも、戦争末期の国民は飢えて何も考えられず、行動する力もなかった、希望もなく、絶望と憎悪だけがあった。情報もなく、男たちもいなかった。男たちは少年から中年にいたるまで戦地へ駆り立てられていた。残るのは老人、女、子どもだった。それらの上に焼夷弾や爆弾が雨あられと降り、家を焼き、防空壕の少年少女たちを蒸し焼きにし、逃げ惑う女や幼児に機銃掃射を浴びせたのだった。……
それらにくらべれば、この焼け跡はずっと人間らしく温い。そして偶然のことで生き残った私たちも、非命に斃れた人に手を合わせることができる。点々と供えられる花。ここにあの人は、あの子は、生きていました。腕に、胸に、生きていました。それを訴えるあかし。そしてまた、テレビに延々と出る犠牲者たちの氏名。……やさしい世の中になった、名前が残るのだ。遺族たちが、これこれの名のものが死にました、と言挙げできる。戦争中は死者の名さえ葬られた。どこで誰が、何人死んだかも一切不明である。人々は、帰ってこない家族を、出先で空襲に遭遇したものとあきらめ、外出したその日を命日にしている。……戦争と地震と。どちらが悲惨で、どちらが軽微ということはいえない。その場の体験者の心ごころによるであろう。
でも少なくとも長田の焦土には花があった。コップの水が死者に手向けられていた。戦争中よりもやさしい、人間らしい眺めだという所以だ。
(引用元:田辺聖子『ナンギやけれど…… わたしの震災記』集英社 p125-127)
こういう文章を読むと、津波の被害に加えて原発事故も起こり、国難という言い方に違和がない事態になっていることはわかるが、安易に戦争になぞらえるのはよくないのではないかと思う。むしろ、気分的にも戦争に近づかないように気を配るべきなのではないか。
日本は毎年のように台風災害があり、大きな地震としては近年では阪神淡路、新潟での被災があった。そのときの教訓が今回の被災者支援に活かされる筈だ。
このまま運良く長生きできれば独り暮らしの老人になる私は、家族がいないせいで名前が出てこない行方不明者のために、神社参りでもしようかと思っている。