男はつらいよ 寅次郎紅の花

DVDで鑑賞。
寅次郎がリリーと再会する。
1995年。柴又の「くるまや」では、連絡がない寅次郎(渥美清)の身を案じながら、一月に起こった阪神・淡路大震災のドキュメンタリーをテレビで観ていた。すると、被災地・神戸に寅次郎の姿が映っている。やがて、鹿児島の寅次郎から電話。元気で旅を続けているという。
寅次郎の甥、満男(吉岡秀隆)は、好きだった泉(後藤久美子)から見合い結婚すると知らされショックを受け、津山での泉の結婚式を妨害、一人奄美大島へと行く。そこで出会った女性に助けられ、家に泊めてもらえることになった満男だが、彼女の家に行ってみるとそこには寅次郎がいた。家の主の女性は、以前寅次郎と関わりのあった歌手・リリー(浅丘ルリ子)だったのだ。
若い二人、満男と泉を見守りながら、もういい年になった寅次郎とリリーも互いの気持ちを寄せ合うようになっていくのだが。…
新聞広告を出しても音沙汰がない寅次郎のことをいろいろいいつつ、テレビで被災地のドキュメンタリーがはじまると「ちゃんと見なくちゃ」と居住まいを正す、背骨にちゃんとしたところのある庶民像が、おなじみの登場人物によって自然に観ているこちら側に入ってくる。寅次郎とリリーはどちらも流れ者といっていいせいか、波長がよく合う仲のいい男女に見えるのだが、気が合いすぎてケンカにもなりやすいのかな。いつもどおりの「男はつらいよ」な展開なのだが、これは実質シリーズ最終作になってしまった。
製作中は、少なくとも山田洋次監督はそんなことを意識していなかった筈なのだが、今観ると偶然とはいえ、実質最終作にふさわしい映画になっているのがふしぎだ。作中で、若い満男に教える形でリリーとの思い出が語られる。リリーはもっとも寅さんにお似合いだったと大勢に見なされるマドンナで、最後にいっしょになるのにはふさわしい相手だっただろう。しかしそれは完結せず、それでもリリーが寅次郎のことを思っている様子だけは見せて、最後の場面で神戸市長田区の焼け跡が映る。復興されはじめた町、寅次郎は人々に迎えられ、祭のにぎわいの中に消えていく。
私がこの映画を最初に観たのはテレビ放映のときで、その時点で既に渥美清は死去していた。つまり、これが実質最終作だったとわかって観ていたのだった。たぶん観ている私が過剰にこれが渥美清の遺作だと意識してしまっていたのだろう。そのせいで、最後の長田区に寅次郎がやってきた場面で、焼け跡に花が供えられているのが映る一瞬が妙に強烈に記憶されており、なぜか被災して亡くなった人たちの輪の中に寅次郎が消えていったような絵を脳内で捏造してしまっていた。見返してみると当然そんなことはなかったのだった。
渥美清だが、子どものころは顔がこわくて仕方がなかった。親がテレビで寅さんの映画を観て笑っているのがよくわからなかった。大人になってからは、顔はやはりこわいのだけれども、渥美清のうまさはわかるようになるし、寅次郎という役のおもしろさもわかってくる。おはなしも、生意気盛りの若い頃にはなんだかあたりまえすぎてぴんとこないのだが、中年になると、現実のきびしさも描きながら夢も見せてくれ、しかも甘くなりすぎないよう周到に考えて作られているのがわかってくる。
渥美清だが、あのこわい顔を活かして怖い役をやってもらいたかったな。そういうのも観たかった、そんな気がする。そして、渥美清が、実質最後の映画スターだったのかな、とも。