小林信彦による「安原顯」のこと

Living, Loving, Thinking」からのトラックバックより辿っていった先で次の記事を読んだ。2006年3月13日付。
「こんなもの文学じゃない。これはただの商品だ」(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060313/1142223339
村上春樹「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」(『文藝春秋』2006年4月号)に関する記事。この村上春樹の寄稿は新聞でも取り上げられるほど一部では話題になった模様。安原顯に生原稿を無断で売り払われるという被害にあったことが書かれていた。
この村上春樹の文章を読んで、小林信彦が感想と自身の体験を週刊文春での連載エッセイに書いている。
小林信彦「品性を欠いた話」('06-04-13)(『昭和が遠くなって』文藝春秋

昭和が遠くなって―本音を申せば

昭和が遠くなって―本音を申せば

私も文藝春秋に載った村上春樹安原顯についての文章は読んでいるのだけれども、掲載された号はもう手元にない。
小林信彦の『昭和が遠くなって』は持っているので、読み返せる。
小林はまず村上の件の文章を読んだ感想として、これは <覚悟を決めた> 文章だ、と記している。そして、<安原氏> に関する自身の体験談を書いている。
小林信彦安原顯と知り合ったのは1975年。当時安原は中央公論社『海』の編集部員だった。その後、1983年に安原から小林に電話があり、仕事を依頼され、『海』にエッセイを連載することになる。しかし困惑させられることもめずらしくなかった。小林信彦は当時の安原についてこう書く。

常識的に、これは許せない、ということが二、三回あったが、編集者として <できる> 面もあるので、あの男じゃ仕方がないか、と苦笑するしかなかった。
(引用元:「品性を欠いた話」(小林信彦『昭和が遠くなって』文藝春秋))

そして、今回村上春樹の文章を読み、はじめて安原顯が小説を書いていたことを知った、という。安原が <作家志望→挫折者> であり、人気作家に対して鬱屈した思いを抱いていたということに納得がいった、そうだ。
小林信彦によれば、村上春樹の原稿が古書店に出たという情報が雑誌のコラムにのったのは、この寄稿より3年ほど前の事で、その時点で小林信彦には「誰がやったのかが、すぐにわかった。」
小林信彦は、作家の生原稿についてこう書いている。

村上氏が記しているように
<生原稿の所有権は基本的に作家にある。>
もっとも、ワープロ、パソコン使用が大勢を占めた現代では、万年筆で原稿用紙を書くのはごく一部の作家だろう。いずれ、生原稿というものは世の中から姿を消すにちがいない。
作家の生原稿が商品となるのを避けるために、「新潮」や「文學界」は、ある時期(六〇年代〜七〇年ごろ)から、原稿を作家に送り返している。今は、当方も、ファクシミリを使うことが多いから、生原稿は手元に残る。
(引用元:「品性を欠いた話」(小林信彦『昭和が遠くなって』文藝春秋))

小林信彦も生原稿がネットで売りに出されるという被害にあっている。親切な人が連絡してくれ、小林信彦は対処した。

とりあえず、日本文芸協会に相談し、中央公論新社の人に連絡した。結果として、すべてとはいえないが、かなりの生原稿が僕の手元に戻ってきた。かつての中央公論社の「海」編集部の生原稿の扱いを村上氏の文章で知り、ぞっとした。
(引用元:「品性を欠いた話」(小林信彦『昭和が遠くなって』文藝春秋))

くわしくは『昭和が遠くなって』所収のエッセイを読んでもらいたいけれども、安原顯というアクの強い人物が作家や作品をどう見ていたかということ以前に、勤め先の事務所から持ち出してはいけないものを勝手に持ち出して売り払ってしまう、そういうことをやる人、という印象が私にはまず残る。
これは記憶として浮かんできたことだけれども、村上春樹は「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」の中で、作家デビューする前にジャズ喫茶を開いていた頃、店に客としてやってくる編集者という人たちから受けた印象を書いていて、その中に件の安原氏も入っていたのではなかったか。(それともべつのエッセイで読んだのだろうか)
村上春樹はジャズ喫茶に客として来た人に対しては距離を置いて観察していたようだったが、山口洋子は『ザ・ラスト・ワルツ』で、初めて開いた小さな店に常連客となった若い記者や編集者が集まって、わいわい楽しくやっていた頃を、若い頃のいい思い出として書いていたな。そんなこともついでに思い出したわ。
うろんな記憶をたどり、まちがったことを書くかもしれないのでこのへんでやめよう。でも、取り上げた小林信彦のエッセイは読んでもらいたいです。文庫版も出ています。

昭和が遠くなって―本音を申せば〈3〉 (文春文庫)

昭和が遠くなって―本音を申せば〈3〉 (文春文庫)