昨日の続きになりますが

http://d.hatena.ne.jp/nessko/20131107/p1

世間から7年遅れで、

村上春樹「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」(『文藝春秋』2006年4月号)

について書かれたいろんなブログを読んでみた。
そして、村上春樹の熱心な読者特有の世界を目の当たりにして、ちょっとびっくりしましたね。うわさには聞いていたけれども、ほんとにあるんだ! みたいなかんじでね。
正直、もっとフツーに読んであげればいいのに、そう思ったよ。
私は当時掲載された文藝春秋誌上で村上春樹が寄稿した文を読んで「ふーん、こんなことがあったのか」「小説家もたいへんだなあ」と思っただけだったからね。
いつも通りの村上春樹の文体だが、そこから怒りを押し殺していることがいやでも伝わってくる。でも、そのこと自体はべつに不自然ではない、なぜなら、彼には怒るだけの理由があるから。
あの文章自体はいかにも村上春樹が書きそうな文章だ、とも思ったんだけれども。(いくつか彼の本を読んでいる者としての感想です)
そして、これは村上春樹自体からは少しずれることだが、こういうことを公の場で語れるのは、この文を寄稿した時点で村上春樹が人気作家として安定した地位にいるからで、もっと弱い立場にいる作家だと出版社との力関係上泣き寝入りしていたりする例もざらにあるんだろうな、と、下世話な想像もしてしまったよ。
安原顯については、書評集をおもしろく読んだ記憶があり、ただいかにも豪放気取りの物言いから、こういうかっこつけしたがる男にはめんどい人が多いけどなあという印象も持っていたので、村上春樹によって描写された安原像については、さすが作家、観察力と描写力が図抜けている、と思っただけ。
べつに村上春樹の見方が絶対だとも全てだとも思わないですよ、村上春樹だって「私にとってはこう見えました」という書き方しかしてないわけだからね。
で、何か問題あるのでしょうか?
一般論としては、作家という人種に不義理をすると、後々その場面をその作家目線で描写されてしまう危険がある、ということになるかもしれませんね。