村上春樹『パン屋を襲う』新潮社

パン屋を襲う

パン屋を襲う

あとがきによると、ドイツ人イラストレーターのカット・シンメックが「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」を絵本仕立てにして出版し、その日本版を出すにあたって村上春樹が文章に手を入れえてヴァージョン・アップしたものだという。著者曰く「オリジナルのテキストとは少し違った雰囲気を持つものとして読んでいただけると嬉しい」。
私はオリジナルは読んでいないので、パン屋のおはなしはこれが初見となる。

「パン屋を襲う」

どうしようもない空腹感に苛まれ、主人公は同じ境遇にいる相棒と共にパン屋を襲撃することにする。日本共産党のポスターが貼ってある店内でラジオ・カセットから流れるワグナーを聴いているパン屋の主人は、包丁を持ちパン屋を訪れた二人から事情を聞いた後、取引を持ちかける。……
空腹に耐えられなくなった主人公が、冒頭でそのことを語り出す、その語り口がいい。あえて理屈をこね、詩的な言い回しをする、そこから生じるおかしみ。
ゴダールの映画「パッション」で、映画監督である主人公が撮影セットの中のプールに裸の女の子を大の字の形に手足を広げさせて浮かべさせた後、そのプールの方をじいっっと見つめている主人公の顔のアップが何秒か続き、そこへ通りがかった人が「何を見ているんだ」と主人公に聞くと、めんどい表情のまま「宇宙の傷口を見ているんだ……」と答える、たぶんフランス人ならここでどっと笑う(もしくはにやにやする)んだろうな、という、あのかんじにつながる、おかしさ、かな。
全体に大人向けの童話(この言い方は書いてみると変だな)というか、このおはなし自体をひとつのたとえとして、読む人それぞれが想像力を伸ばしていきやすいものになっている。村上春樹についてファンが熱心に語りたくなるのはそのせいなのか。
なにかを象徴するものとして持ち出されているのは承知の上で、あえてこの物語の世界そのものを見て思ったのは、パン屋の主人がワグナーを聴いている、というのが、いい。主人公と相棒はたまたまワグナーがそんなに好きじゃないので、そのおかげでこのおはなしはわかりやすい寓話にも見えるのだけれども、例えば私が主人公と同じようなことをここでやったら、私はワグナーが好きなので、ワグナーが好きなパン屋のおやじ、という存在には、ぐっとくるものを感じるので、なんだかわからなくなるのだろうな。
それとは別に、やはりこの物語世界では、パン屋のおやじが好きなのは、ワグナーでなければならない、だろう。モーツァルトやバッハだと「ふーん、そういうのが好きなの」で終わりそう。ワグナーとは別の意味で、パン屋のおやじが好きだとぐっときそうなのは、たとえばヴェルディだが、ヴェルディの好きなおやじがやってるパン屋になると、町で評判の美味しいパン屋さん、みたいな雰囲気になって、たぶんいついっても女の客がいっぱいいそうになるんだよね。
ここは、だから、ワグナーでなければならない、んですね。村上春樹はたぶんそういうチョイスがうまいのだろうね。

「再びパン屋を襲う」

主人公はパン屋を襲撃した相棒とは疎遠となり、その後大学を卒業し社会人になり、結婚していた。しかし、ある夜、妻と二人突然とてつもない空腹感を覚え、二人は台所中を探すが食べられるものが何もない。主人公は、以前にも似たようなことがあった、と思い出し、かつて相棒とパン屋を襲撃したことを妻に話す。それを聞いた妻は、今は私があなたの相棒なのよ、今度こそ、パン屋襲撃を果たしましょう、そう言って、立ち上がった。……
共働きの若い夫婦の、ありそうなたたずまいがいい。ありそうで、じつは現実にはなかなかないのかもしれないのだけれども、だからこそリアルに見えてくるのだろうか。ミドルクラスの教養ある二人が仲良く新生活を始めようとしている、その矢先で襲いかかる耐え難い空腹感。妻は、あなたと結婚するまでは、こんな空腹を覚えたことはなかった、これはあなたが私の人生に持ち込んできたものだといい、もはや自分の空腹にもなってしまったんだから解消するためにはするべきことをするわ! とさっさと準備を始め、主人公は妻の意志に従う形で再襲撃(襲撃のヴァージョンアップ版?)に赴く。欠落をはっきりと実感するしびれ、それは妻という形で相棒を手に入れたが故にもたらされたのかもしれないのだけれども、ひとつ大人になった主人公の再襲撃が描かれている。
当時は翻訳調であるといわれた文体も、いまとなっては特になんとも思わずするっと読めてしまう。ある種のもののたとえ方など、都筑道夫のミステリを思い出させるところがあるのだけれども、都筑道夫英米のミステリからの影響が濃かったし、エンタメだと翻訳調の文章でもおもしろければそれでよかったのでしょう。
翻訳調の文章といえば、昔から日本には漢文および漢文調の文章というのはあり、村上春樹が突然変異というわけではないだろうとは前から思っている。漢文と日本語は分かちがたく結びついているので、英語からの翻訳文とは同列には並べられないだろうが、宇治拾遺物語にくらべると今昔物語は漢文調で、そのせいで読んだ時受ける印象は同じような話でも相当ちがうし、漢詩は和歌にはない雰囲気が出せるし、もっといえば日活の無国籍アクションだとか、登場人物の顔の原型はどう考えても白人だろうというマンガの絵柄だとか、書いていてまとまりがつかなくなってきたのだけれども、村上春樹についてよく言われる翻訳調だとか日本的土着臭の希薄さとか、そういうものって村上春樹だけではなくて他のものにもあるよなあって、そんなことを思い出したよ。