『世界』2022年9月号 小田中直樹「歴史学(者)の役割とはなにか」

 

 

 冷戦終結後のグローバル化の進展によってアイデンティティの揺らぎが世界的に広がり、マジョリティズムで安定を取り戻したい人々が、ナショナリズムやそれを根拠づける「歴史」をツールとして使うようになった。SNSではツールと化した「歴史」が政治勢力を増すための武器として使われ、現実の政治局面に影響を及ぼすことで「フェイク」から「リアリティ」へと変貌しつつある。
 この事態に歴史学者はどう対処すればよいのだろうか。歴史学にできることは何か。
 現在の歴史学を科学たらしめている、実証主義(記憶の排除)、公文書至上主義(ナショナル・ヒストリー)、資料批判(欠如モデル)、を根幹に据えつつ、かつてより指摘されていたその限界や不備を補い歴史学の枝葉をしっかりと広げより豊かな実りを得られるようにするための提言。くわしくは『世界』9月号で読んでみてください。
 
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なんというか、アラビア語の3語根からすべての言葉が派生して言語世界が繁茂する、あの感じを連想しました。アラビア語学習中なので。
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 SNSの普及によって、トンデモ言説が拡散し広範囲に影響を与えるという事象は、学問以前の、人が人から聞いたことばをどう受けとめどう対処するかという、わりと日常の下世話な空間で起きていることに似た人の動きに直接しているので、そこに介入するには学者ではない、もっと適した人が必要なのではないかと思ったりしました。それこそマスメディアのできることがまだありそうなんですけどね。
 (女性の発話が日常どう受け止められどう処理されているか、否応なく弱者に影響するその波紋など、ぞっとするような現実とSNS上の言説の流れはよく似ている)
 
 あと、SNSによってアングラだった言説が影響力をもってしまうというところからは、昔読んだ中島梓『ベストセラーの構造』の、正統派教養が平地にただひとつのピラミッドとしてそびえていたときは、遠いところからでも誰の目にもそれがピラミッドとして認識されていたけれども、その周りに他のピラミッドがいっぱい建つと埋没してしまって、見えなく見られなくなってしまい、以前とは変わらないピラミッドとしてそこにあるのに存在が見えづらくなり価値が伝わらなくなってきている、という言い方をしていたのを思い出します。中島梓が「他のピラミッド」と呼んだのは、マスメディアの発達によって隆盛した大衆文化(主に当時の若者向けのマンガ、ロック、エンタメ小説などのこと)でした。
 
 そして、歴史、というと、たとえばアフガニスタンのパシュトゥン人なんかはどうなるんだろうな、というのも、ざっと一般人向けの本を読んでみただけの者の感想としてぼんやりと頭に浮かんできます。彼らは部族の掟を守るという生き方をずっとしてきているそうで、それでなんというか、他から自分たちの住む地域に別部族が入って来ると叩き出すんですね。アレキサンダー大王のころから、ずっとそれをやってきてて、他地域で発生した「理想」がガン細胞化して周囲に広がっていくとき、それがアフガニスタンに入り込むとパシュトゥン人がそこで止めるんですよ、拡大を。人類規模の免疫機能? ロマンチックになってきてますが、そういうイメージがあって、それで、近代だと帝国主義共産主義もあそこで止まって、去年たぶん自由民主主義にもフラグが立っちゃったんだろうなというのがあってね。パシュトゥン人はそういう風に世界の歴史に関わってるけれども、でも彼らは昔ながらの部族の掟を守る生き方をしてるだけで、ずっとそこにいて、それだけなわけだが、ああいう存在をわたしたちが普段言う「歴史」はどうつかまえているのか? など。
 
 『世界』読むと、いろんなことを考えたり思いついたりしてしまいます。