小説家が強制収容所に入れられる。
『世界』連載中に読んでいたのですが、やはり桐野夏生の長編は本にまとまったのを一気読みした方がいいね。頁をくる手が止まりません。
冒頭から不穏な空気が漂い、主人公のマッツ夢井が召喚状の指示に従って出向いた場所から車で実質収容所である七福神浜療養所に連れて行かれるまでは、1977年の映画「サスペリア」のはじまりを思い出さされます。つかみはOK、というか、物語世界へ読み手が拉致されてしまう、そんなかんじ。
総務省からの召喚状に「?」となりながらも、そういえばこのまえ「願い書」なるものが送られてきてたけど、よく見ないまま捨てちゃったわ、どうしよう……というの、似たようなことって作家でなくても起こりますよね。
あと、最近作家の訃報が続く、とか、これも作家に関心がある層だとたまにふと思ったりすること(女性の物書きはなぜか40代、50代で亡くなる例が多い印象はある)。
そういう読者にも共鳴しやすい出来事から不安にさいなまれつつマッツ夢井は召喚された場所に向かうのですが、そんなときにかぎって電車内できゃっきゃする中年女性集団と乗り合わせたりとかね。なんかこう、あるある! な場面から物語世界へと引きずり込む、桐野夏生はそれがうまいな、と、いつも思う。
さて、マッツ夢井は七福神浜療養所で、小説やエッセイを読んだりするのがそもそも好きではないタイプの人たち、自分が好きではないことを楽しそうにやっている小説家への反感を煮詰めたような人々と対峙することになります。彼らの言い分があまりにも一方的で偏見に満ちているので、マッツ夢井は果敢に反論しますが、同時に自分のような作家という種族にありがちな傾向やそれが傍からどう見えているかも内省することになります。
いまではネット上でマッツに敵意を向けるようなタイプの人らからの雑言をいくらでも目にすることができますが、その手の雑言がより合わさって人格化したような職員にマッツ夢野は管理されることになってしまう。
世の中には小説を書いたり読んだりするのが好きなタイプの人もいる、ということを、そういう人もいるよねと認めて、好きではない側にとっては自分と異なるタイプの人たち、そういう人たちのいられる場があれば済むことなんじゃないの、なんですが(いまは興味なくても自分が興味を持ってそういう場に行くかもしれないんだし)、どうにもそれができない、したくない。このあたりのギスギス感は、『世界』2024年1月号の大澤聡「意見が嫌われる時代の言論」にもリンクしてきそう。他の人の意見が自分を攻撃してくるように感じてしまう人は昔から常にいるんですが、大学で学生が屈託なくそれを教師に言うようになってるんですね。
ラスト、主人公は日の出だか日没だかわからない情景の中に置かれます。小説やエッセイを読むのが好きな者の一人として、これが日没になってしまわないようにするには、ちゃんと本を読むことかな。そして自分の感想を持つこと、わからなかったら「わからなかった」と記憶しておくこと。
『世界』2024年1月号で、桐野夏生はインタビュー「反社会的で、善なるもの いま小説を書くということ」で、自分の小説に対する考えを述べています。
『世界』1月号で読んでみてください。