フランシス・フクヤマ

カトラー:katolerのマーケティング言論 - サブプライムローン破綻の諸相 〜見えない敵に怯えるアメリカ〜
上の記事にフランシス・フクヤマのことが出ていたのを見て思い出したこと。
私はフクヤマの本をちゃんと読んだわけではなく、 『歴史の終わり』だかが日本でもそこそこ話題になって、その書評やフクヤマへのインタビューなどが雑誌に載っていたのを見ただけなのだが、なにかその光景に既視感を覚えた。「歴史は終わったんだよ、だから云々」という物言いは、80年代のバブリーな日本において一部文化人がコラムや対談において時々していたものだからだ。一冊の本まで書いてしまったフクヤマは、もっと理屈付けを整えた話をしていたのかもしれないが、当時アメリカがバブリーに景気がいいらしいと伝えられていたせいもあって、なんか似たようなことになってんのかな、という印象を持ってしまった。ちゃんと本を読んでみたいなという気持ちにならなかったのはそのせいだ。
その後、ネオコンだか、アメリカは特別エライのよという本が話題になったりもしたが、バブル絶頂期の日本だって日本は特別だよん♪みたいなことを言うのが流行ったりしたこともあったので、やはりいつか見た多幸的妄想極大化をまた見せつけられるような気分になった。日本の文化人がそれに乗せられる、または乗ったふりをしてみせるのがよくわからなかった。ださいな、ってひとこと言えばいいのに。
アメリカが超大国だというのは、ある意味では単なる事実でしかないかもしれない。日本だと勘違いしてるなとしか見えないことがアメリカだとそうはならないというのはあるだろう。しかし、あのソ連だって、軍事超大国ではなかったのか?ソ連が崩壊するなど70年代には想像もされていなかったのではなかったのでは?一般人的には、ソ連って強いイメージしかなかったように記憶してるけど。
ま、ソ連が崩壊しても終わりなき日常は続いているし、だからアメリカが冷え込んでも日常はほぼ相変わらずなまんま続いていくんだろうが、そんなこととはまったく無関係にフクヤマは相変わらず大仰だなと思う。近著のタイトルが『アメリカの終わり』だというのだから。とはいえ同趣向のタイトルの本は、日本の本屋さんにも恒常的に並んでたりはしますよね。その種のジャンルのファンがいるのかもしれないな。
フクヤマって日本でたとえるならどんな書き手なんだろう?

追記:フクヤマの本のタイトルについて 2007-09-04

『歴史の終わり』も『アメリカの終わり』も邦題ですね。原題は次のようになっていました。()内が原題です。
『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man)
アメリカの終わり』(America at the Crossroads: Democracy, Power, And the Neoconservative Legacy )
やっぱり大仰、というか、なにげにコピーライター的?
これは題名つけるのがうまい、ということになるのかもしれませんね。邦題についていえば、『歴史の終わり』にあわせて『アメリカの終わり』とつけたのはうまい、のかも。原題だと「岐路に立つアメリカ」とでも訳せばいいのかな。

さらに追加されるどうでもいい感想 2007-09-04

冷戦時代は東側がイデオロギッシュにつっぱるオヤジで、西側は「そんなにつっぱると損するわよ」とオヤジを腹の底でバカにしながら適当につきあっていたオバサン、みたいなとこがあったと思う。
東側がついに挫折した後、西側はオヤジに死なれたオバサンみたいになって、自分の実際的な良さをうまくつかまえられなくなってしまい、内心アホらしいとしか思っていないのに後家になった自分を正当化するために死んだオヤジの語り口だけを真似ているようなところがないだろうか?
新自由主義というのが気色悪いのは、イデオロギーを擬態しているけれども内実はそうではないからなのではないか?
それにくらべると、カール・マルクスならソ連が崩壊しても「たとえ世界が滅んでも、私のことばは残ります」と言ってすませて別におかしくない。してみると、マルクスは、本物の男、だったのだろう。
本物の男。。。突然、『地獄に堕ちた勇者ども』で歌い踊るヘルムート・バーガーを思い出してしまったw