レスラー

DVDで鑑賞。
落ち目の初老レスラーの物語。
"ザ・ラム" のニックネームでかつては人気を極めたレスラー、ランディも年を取り、現在はドサ廻りの興行に出場、平日はアルバイトをしている。独り暮らし、長年の無理がたたって体調も思わしくない。引退を考えるようになった。馴染みのストリッパーに会うのが唯一の慰め、疎遠だった娘と交流を再開しようと努力するも、自身のうかつさから実らない。すべては自業自得、そのことを受けとめた後、自分が選んだ場所・リングへ戻っていく。
40代以上の人なら、過去のミッキー・ロークを覚えているだろうから、この落ち目のレスラーと、それを演じているミッキー・ロークが重なって見えるだろう。そのダブリ効果がこの映画の印象を増幅する、そんなところがあるのではないか。少なくとも私にはそうだった。しかし、昔のミッキー・ロークなんてものの記憶を持たない若い人にはどう観えるのか。加齢からくる衰えが主軸となるおはなしなので、若いとなかなか実感できない類のせつなさ、つらさが重い要点となる物語だったりしてるしね。しかし、別にそんな映画スターの経歴を知らなくとも、ミッキー・ロークがその体格、崩れた顔面など自前の柄を生かした上で、精魂込めて役造りして初老のレスラーを演じ、作品を支えていることは伝わるのではないだろうか。
ミッキー・ローク、オスカーは獲れなかったが、私としては『ミルク』のショーン・ペンより『レスラー』のミッキー・ロークが受賞すればよかったのに、と映画観て思ったよ。アカデミー賞、昔はアル中の役をやったらオスカー獲りやすいといわれたが、このごろはゲイの役をやると獲りやすい傾向がありはしないか。それも、ゲイではない役者がゲイの役をやると、獲れる。ゲイの役者なんて大勢いそうなものだが、なぜかゲイがゲイの役をやって誉められたりすることはほとんどなく、こうして考え出すとよくわからない世界よのぅとなっていきますが、ゲイの役をやれる役者よりプロレスラーの役がやれる役者のほうが稀少価値があると思うんだよね。ミッキー・ローク、えらい。
プロレスには、私も一時期はまった。ファンだった。あのころテレビや会場で観たプロレスラーに対してはファン心をいまでも持っている。
女子プロレスというのもあるのだけれど、私にとってはプロレスといえば男子、男のプロレスしか観に行ったことはない。そして、プロレスを観ているとき、極めて単純に、男はうつくしい、と思う。男は、男であるだけで、うつくしい、と。
これは、ほかの芸能人やスポーツ選手にはありえない。プロレスラーだけが、伝えてくれる、うつくしさ。
プロレスに関心がない人にはどうでもいいことだろうが、私にとってはプロレスは他では代替できない特別な見世物だった。
そのせいか、プロレスラーに対するファン心というものも、他の芸能人やスポーツ選手に対するファン感情とは異なった、特別な気持ちだったりしている。
映画『ハイランダー』の冒頭では、プロレス会場が映し出される。ファビュラス・フリーバーズが登場、リング上でライトを浴びながら、マイケル・ヘイズがキラキラした真っ赤なガウンを、ゴージャスな肉体を見せびらかすストリッパーみたいにしゃなりしゃなりと脱ぎ捨てる。最高。自分の知っているプロレスラーが映画に出てきた、それだけですごくすごくうれしい。こんなよろこびは、どんな役者もスポーツ選手も与えてくれない。プロレスラーだけが与えてくれるんだ。その後、元気よくファイトしているところも映った。ファビュラス・フリーバーズが出てる! 映画の本筋とはまったく関係のない場面だったが、『ハイランダー』で記憶しているのはファビュラス・フリーバーズだけだ。
そして、プロレスラーは他の者には与えられない哀しみも、ファンに教える。自分が好きだったプロレスラーの訃報を知る時覚える哀しさ、寂しさ。あの深さはちょっと類がない。どんな有名人の訃報にも感じない、ほんとうに涙が出そうになるような喪失感。
プロレスは特別なもので、それがわからない人はプロレスのファンだったことがないんだろうな。そんな風に私は思ってしまうのでした。