笙野頼子『夢の死体』(河出書房新社)

猛暑が続き、きょうも蒸し暑い。くもり空だったので、雨が降ってくれればいいのにと思う。
遠方で花火の上がる音がしばらく続いた。夏の夜空に上がる花火はいい。暑い暑いとエアコンをつけて部屋にこもるだけではいけないのかもしれない。夏は日が暮れてから、ちょっと外に出てみるといいのかな。
図書館で笙野頼子『夢の死体』(河出書房新社)を見つける。初期短編集。本全体、水のイメージが覆い、装丁も水の質感をとじこめたようだ。「虚空人魚」の硬質で透徹した世界が、一瞬この暑さを忘れさせてくれた。
SF雑誌に載っていればSFというジャンルに見えただろうか。しかし、字面の感触がなにかちがう。やはり純文学としかいいようがないのではないだろうか。うまくいえないが、フリージャズと、そうでないもの、たとえばジャズ色の強いファンクとは、似ているようで異なる。その差異は無視できないし、無視するとどちらの美点も見逃されることにつながる、そういったちがいがあるのではないか。
実は私は純文学のことはよくわかっていなくて、図書館で偶然出会った笙野頼子のファンになってしまっただけで、純文学にくわしい人たちの感想や書評を読んでいると、自分はほんとうに笙野頼子作品を読めているのだろうかと不安になってくるのだが、たんに好きで読んでるだけの一般読者だし、好きなものは好きでいいだろうと自分一人で決めている。
笙野頼子との出会いがきっかけで、純文学への先入観・偏見が薄れたという面もあるな。というか、自分が純文学に偏見を持っていたことに気がついたというべきか。読んだこともないのに妙な先入観を持っていたよ。読まずに敬遠していたし、それが何故かがよくわからないようで、なんとなくマスコミ言語の影響でそうなってたんじゃないかなと思える。
純文学なんてださい、そういう言い方が方々で流れていて、それに染まってたんだろうな。サブカル分野で目立つ男がよく言ってたように記憶する。いまでも言ってるんだろうか。
どうも最近、純文学よりサブカルが先に逝くのではないかという気がしてならないのだ。ひょっとして、もう、逝った後なのか? この、逝く、というのは、自家製権威主義者とでも呼びたくなる一部サブカル野郎の力が失せるくらいの意味だけれどもね。
純文学だろうがサブカルだろうが、愛されるものは愛され、残るものは残るだろうし、つまり逝くも逝かないもないだろうけれども、作家と読者に寄生しているような人たちがいるんだよね。そういう連中が逝っても、作家や読者は別に困らないんじゃないかな。
イラスト:blue daisy