村上春樹『1Q84』(新潮社)

話題になった『1Q84』、私も流行に乗っていち早く購入、とても楽しんで読んだので感想を書きたいなと思ったりしながら、何も書かずに来てしまった。
なぜかといえば、私は村上春樹スティーヴン・キングを読むようにしか読んでいないのに、世間一般では春樹はそうではない読み方をしている人が多いらしい、と巷で目にする春樹評からうかがわれるからだ。
私が『1Q84』を読んでおもしろかったというのは、次はどうなるのかおはなしを読むのが止められない、そういう楽しさが読んでるときあったよ、ということで、しかし、世に出ている村上春樹についての本はなにかちがう次元で展開している。本屋や図書館で遭遇する春樹本をぱらぱらとめくると脳内に「……お呼びでない?……お呼びでない?!」という幻聴が響き、まともに読まずに置いてしまう。
持ち上げる説も、批判・非難する説も、どちらも私の読書体験とはすれちがったところでなされているように思えてならない。
しかしとりあえず、自分のためにざっと感想を書いておくことにした。「MacBook Air 11インチ欲しい!」と書き込みたくなったから。
この正月に久しぶりにスティーヴン・キング『ドロレス・クレイボーン』を読んだ、というのも大きいかな。私はキングを読むようにしか春樹を読んでいないが、ストーリー・テラーとしては、キングと比べると春樹は線が細い。しかし、春樹の小説は村上春樹ならではの美意識できれいにこしらえられており、春樹的調度で整えられた世界をめぐり続ける快感がある。キングは、もっと即物的に身も蓋もないリアリティを現出させてるけど、春樹だと、萩尾望都がマンガ化すればちょうどいいんじゃないか、そんなかんじなのね。
こうなると、村上春樹は男のための少女マンガだ、と言ってしまいたくなるが、しかし、まてよ、となるのは、日本ではそういうところがあるのかもしれないけれど、翻訳されて読まれている外国ではどうなんだろう? というのがでてきて。ひょっとしたら、外国では、女の人が村上春樹をよく読んでたりしないだろうか、そんな風に想像してしまうんですね。アメリカだと、キングより春樹のほうがいい、だってきれいだもの、そういう女性読者がいるんじゃないだろうか。
ところで、作品自体が独特の美意識、かっこよさでまとめられていて、その世界自体を味わうのが読むよろこびのひとつである、というのは、たとえばチャンドラーなんかはそうだろう。べつに少女マンガをたとえに持ち出すこともないのかもしれないね。
1Q84』は、青豆と天吾という二人が、1984年の東京を借景する形でつくられた夢の世界で、本来そうあるべきだった真の関係を手に入れ、現世に帰還する、そんなおはなしだった(もう読んでだいぶ時間が経ってる、記憶だけで書いている)。赤い糸で結ばれた主役二人が、夢の世界で遠く離れたまま感応しあい、引き寄せられ、大昔のメロドラマのようなすれちがいまで堂々と演じている。
ふかえりというのは、二人を結びつけるためのギミックと見てさしつかえないし、謎の教団も、牛河も(これは登場人物としてはもっと役が重い印象があるが)、『1Q84』的には同様の存在で、ここらへんをあまり深読みしたところで実りがないのではと私は思ってしまうね。
ふかえりの書いた文章を天吾が書き直して作品化していくあたりは、村上春樹と小説の関わりを想像させる場面ともなっているが、その場合胆は天吾で、ふかえりではない。
そんなことより『1Q84』を読んでいて気になったのは、過去のハリウッド映画の場面を思い出させる情景が頻繁に登場することだ。過去、といっても、せいぜい1980年代以降の映画の記憶をかすめる場面がちょっと多すぎやしないか。もちろん、そのまま流用されているわけではない、にしても、たとえば天吾が意識のない父親に話しかける場面で「マグノリア」の一場面を思い出した人は多かろう。これは一例で、全編にわたってかつて映画で観た絵が断片的に浮かんでくる。スピルバーグは「マイノリティ・リポート」で、映画監督としての自身を客観視し自嘲するかのようにトム・クルーズに映像の断片を脳内で再生させたが、村上春樹の小説には、スピルバーグのような自己批評的な気配はない。
世界市場で受け入れられているハリウッド映画は、各国で大勢の人に物語の記憶として共有されており、すると『1Q84』のような小説も、既にどこかで見たことのあるわかりやすい場面からおはなしの世界にはいっていける、なじみやすさを外国人にも感じさせるのかもしれない。が、それにしても、ちょっと臆面なさすぎやしなかったかな、今回は。
だらだら思いつくまま書き連ねると、止まらなくなりそうなのでこの辺でやめます。しかし、村上春樹はエンタメとしてきちんと評価されたことがあるのか。私が読んでないだけかもしれないけれども、春樹小説のおもしろさを探るのは、イーストウッドスピルバーグの映画のおもしろさを解析するのに似た作業になる筈で、ドストエフスキーやフォークナーとはちょっとちがうだろう村上春樹は、私はそう思うのね。もっといえば、キングともちがうよ。

追記

アメリカ映画だけではなくて、日本のアニメも相当影響してるのかな。ふかえりは「エヴァ」のレイみたいだし、あのリトルピープルっていうのも、日本のアニメに出来てたキャラを思い出させる。