栗本薫『ゲルニカ1984年』(ハヤカワ文庫)

昨日、村上春樹の『1Q84』を読んだ感想を書いたのだが、それで思い出したのが栗本薫のこの作品。
舞台は1984年の東京。主人公はテレビディレクターで、自分の作る番組の準備として戦争についての本を読み漁る日々が続いていた。そのうちに、段々と「ほんとうはもう戦争がはじまっているのではないか」という疑いを抱くようになってしまう。周囲の人々は何故皆気づかないふりをしているのか。不安にかられる主人公だが、ある日街で出会った一人の少女が彼の考えを肯定してくれる。彼は日本は既に戦時下にあると信じ込むようになる。……
主人公が取材の対象として会う軍事オタクが、いわゆるタカ坊、ウヨ坊の姿を先取りして戯画化しているようだったり、主人公の疑心暗鬼もマスコミ不信を極端化したもののようにも見えるが、細部にとどまらず1980年代に栗本薫が感じ取っていた社会の変容を小説自体が濃く描き出している、そんな感想を持つ。
この小説の中で、主人公が出会った少女が、なぜ人類は戦争を止めることができないのかについて彼女なりの解釈を述べるのだが、それが、善の力と悪の力がせめぎあっていて、善が濃くなるとそれに滅ぼされまいとして悪の力が発動される、という主旨のもので、作中では戦争を起こす要因に対してバッド・スピリットという呼び名を少女が使っていたと記憶する。
善と悪の力がせめぎあい人の世が動かされる。この発想は古くからあり、わりと大勢にとってなじみやすいものだろう。物語の中でもよく持ち出される。
村上春樹の『1Q84』でも、謎の教団の教祖がリトル・ピープルについて青豆に語る際に、似た話をしていた。
1Q84』だが、天吾と青豆は現世に帰還すると昨日の日記では書いてしまったが、後でちょっと本を見直すと、book3 の最後では、戻った後青豆の目に映った現世は微妙に1Q84の世界に入る前と異なっていた、となっている。『羊をめぐる冒険』でも、鏡を見た時にそこに映った自分を含む像に対して感じる違和が描かれていたが、村上春樹にはずっとその感じが気になり続けているのだろう。煎じ詰めれば胡蝶の夢になるのかもしれないが、1Q84の世界で天吾と青豆は変容を遂げて現世に戻っており、既に書き換えられた二人を要素として含む1984年はそうなる前とはちがうものになるのかも知れず、そういえば牛河はどうなるんだろうなというのも出てきて、『1Q84』はさらにおはなしが続くのかもしれないなと思ったりした。
栗本薫はもう亡くなってしまったが、『ゲルニカ1984年』はいま読まれても古くなっていないだろう。多作な中で、あまり話題にならないこの栗本作品だが、私にとっては非常に印象深い小説です。