木嶋佳苗と宅間守

美容院で『女性自身』を読んだら、木嶋佳苗の記事が大きく出ていた。『女性自身』の記者と手紙のやりとりをしており、獄中で半生を自伝的小説として書いているという。控訴審が始まったので、それに合わせた記事だった。
その木嶋佳苗についての記事を読んでいて、ふと宅間守のことを思い出した。宅間守は小学校乱入大量殺人で現場で犯人として逮捕され、死刑判決を受けた。最後まで反省する様子は見せず、死刑上等! で、処刑されていった。
状況証拠しかなく、今も無罪を主張し続けている木嶋佳苗とは似ても似つかないブチ切れ男子的態度を貫いて逝った宅間だが、彼は大量殺人事件を起こすまでに、何度も結婚離婚を繰り返しており、女には強かった(もてた、というか、ひっかけるのはうまかった)というのを、獄中からの手紙でも自慢しまくっていたのだった。オレが死刑になっていい気味だと思ってるんだろ、でもな、オレはもういっぱい女とやりまくってるんだ、おまえらよりずーっといい思いしてきたんだぜ! といった調子で。
『女性自身』を読むと、木嶋佳苗も手紙で「セックスはもう一生分した」と語り、他の女と自分をひきくらべて悩んだことなどない、なぜならいつもお金持ちのすてきな男性が自分の側にいたから、と言っている。
宅間守も、木嶋佳苗も、テレビで顔を見た時の第一印象は、顔が脂塗ったみたいにてかってるな、で、私の中ではなんだか印象が似た二人として並んでいたりするのね。
木嶋佳苗は、自分の事を他の女性がマスコミでさもわかったように語るのが不快極まりないらしい。そして、それはわからなくもない。木嶋佳苗の発言を聞いて「わあ、あんなこといってるけど……」と語り出す女性文化人(いや、文化人でなくてもいいんですけれどね)の発語する際の調子というのは、いわゆる「まともな」女が他の女の発言を聞いたときに「まともな」女らしく女という性ならではの本能から現れる反応そのもの、と、思わされることがほとんどだ。ああではない反応しか見せられない女は、女としては自然淘汰されても文句が言えないこわれものなのである。(というより、同じ反応が見せられないはぐれものは彼女たちによって排除される、枯らされるのです)
女が女について語っていることが常に当たっているわけでは当然ないのだが、しばしばその当然が恣意的になかったことにされる。解釈する側にいるのは男なのだが、そこも誤魔化されるのよ、女に語らせることでね。
宅間守は、とにかくいかれた奴として認定されているし、たしかに言動はいかれているとしか言いようがないのだけれども、そういう奴だと外部にすっと受け止められるだけで、木嶋佳苗がされるような女であるが故に生じる女独特の反応に取り囲まれることはない。
男だから、宅間守は救われている面がたしかにあるよな――木嶋佳苗とくらべると、どうしてもそう思ってしまう。