ミシェル・ウエルベック『服従』河出書房新社 (訳:大塚桃)

服従

服従

フランソワはユイスマンスの研究者として名を成した後、大学教授として安定した地位を得ていた。
女性との関係は長続きせず独身のまま44歳となった今寂寥感を覚えることもあるが、余計な野心を持たない彼は、ユイスマンスを読み返したり出会い系サイトを利用したりしながら平穏な日々を送っていた。
もとより政治には関心が薄い。
しかしそんな彼も2022年のフランス大統領選挙は注視せざるを得なくなった。フランスにイスラーム政権が誕生するかもしれないからだ。……
ポリティカル・フィクションの体裁をとった、40代インテリ男性のだましだまし引っ張ってきた“青年期”の終わりを描いた作品とでもいおうか。
小説なので、各人作品を味わってもらうしかないのですが、私的には、スティーヴン・キング村上龍村上春樹を各適量一口大に切って混ぜ、そこにきれいにカッティングした桃の実を加えて、ワインによく合うドレッシングであえたような味わいを楽しめました。
主人公は日常を語る中で、フランスのインテリ業界やマスメディアや社会の様相を醒めた目で見た自分が得た印象や感想を意図的に読者を笑わせようとするようなケレン味抜きで淡々とつづっており、読みながら苦笑するのもはしたないと思わせられた。
現状そのままを描くのであれば、この作品中でアラブの富裕層にあてられた役回りを白人の支配階層にふらなければならないのだが、それはやりづらいので、小説の中で戯画化しやすいアラブ人を持ち出してきたのかなというのもあり、アラブ人でなくとも読んでいてなんだかなあ感を覚えたりするわけだが、しかし、この作品が描出したいのは、そういう背景の前に立たせるとより輪郭がはっきりする主人公のようなフランスのインテリ人種の有様なのだろう。
そしてその有様は日本人にとっても他人事ではあり得ない。
作中、主人公を勧誘する男は、かつてジャン・ポーランが住んでいた邸宅に居を構え、『O嬢の物語』について語る。
私にとって『O嬢の物語』は女のナルシシズムを甘く酔わせるリキュール・ボンボンみたいなもので、ジャン・ポーランによる序文は『O嬢の物語』をしちめんどくさく語りたがる人たちをちょっとからかうような心持で、でもちらりと本気な思いも紛れ込ませて語られたもののように見え、だからこのミシェル・ウエルベック服従』も、そのような一品として味わうのがよい小説なのかな、と。
ところで、この主人公の目に映る世界の中には、アラブ系の女の子の姿は見えますが、シャルリ・エブドを襲撃するようなボーイズの姿はまったく見えません。この小説の主人公のような男の視界には入らない存在だったということなのでしょうか?