“マイルドヤンキー”について

最近よくテレビや雑誌などで取り上げられ、新書まで出ているそうだが。
私はそういう場での“マイルドヤンキー”というのは、自民党支持者への蔑称、もしくは矮小化されて揶揄された自民党支持者のことではないかと受け取っている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1405/23/news086.html
上の記事、前半はうなずきながら読み、大筋では同意なのですが、最後の部分では「?」になってしまいました。ヤンキーは決して反社会的ではありませんでしたよ。「いい学校へ行っていい会社へ就職」できればいいんだけれども、中高生のころその路線から外れてしまって、もうそういう風にはなれないんだとわかってて、だから一時的にぐれたりするんだけれども、やっぱりちゃんとしたいっぱしの大人になっていい顔したい、そういう人たちですよ。ヤクザ化するのは特殊例です。
矢沢永吉は『成り上がり』読むと分かりますけれども、非常にまじめな人で、音楽で大成したいと頑張り続けるんですよ。あれはそういう話です。ガラが悪そうだから会場使わせたくないとかいう偏見と闘って、ファン共々、コンサートが無事に終わったらよろこぶんですよ。ありがとう、みんな! って。
矢沢永吉の直系が音楽バカ一代の小室哲哉になるんじゃないでしょうか。基本ミドルクラス的でちょっとひねた文化人的感性があると大槻ケンチ゛になって、ナンシー関根本敬オーケンとなら話が合うかもしれない。
はてなブックマークもどっちかとういとオーケン的な感覚が主流なのかなあとふと思いました。
なんかそういうこといってるんじゃないよと言われそうになってきたのでこのへんでやめますが、自分が上の記事読んで思ったことなので。

追記

以下はさらに記事本題からははずれて、読んでもやもやと思ったことになりますが。
ヤンキーと呼ばれる人たちの属性としてしばしばあげられる、地元志向、自分と日常直接つきあいのある人たちだけで現実が構成され、メディアからある抽象的な手続きを通して物事を把握するのが不得手で、普段の人づきあいなど直接的手触りに結びつかない物事と自分を関係づける意味やおもしろさがピンと来ず、そんな自分の身近に自分がよくわからないことを楽しんでいる人を見かけると苛立って、仲間外れにしていじめたり、される方にしてみれば理解しがたい方向からバカにしたりもする、という、こういう傾向が“土俗的”であるという形容には含まれているようなのだが。
しかしそういう“土俗的”な傾向は、いわゆるヤンキーと呼ばれる人たちに限定されるものではないだろう。
私個人の経験としては、このような傾向を仲間外れにしていじめるという場面を設定した上で垂れ流していたのは、進学校の一部の生徒さんなのですけれどもね。仲間とつるんで高校生活を破綻なく過ごした後は大学に進学しておそらくいまは東京で大卒ミドルクラスにおなりになっている方もいらっしゃると容易に想像できる、そういう人たちにもおられるのですよ、“土俗的”傾向の強い方々は。
ヤンキーと呼ばれるような人たちだけがフレームアップされることで、見た目はヤンキーではない人たちの“土俗性”がないことにされるのは、やはり片手落ちというか、偏頗な話にしかならないだろうと思いました。
マスメディア上で噺をする人たちにとっては、仲間外れ扱いにできるヤンキーのほうが話の肴にはしやすいのはわかるのですが、自分たちだって似たようなことしてないのでしょうか? 

ブックマークでMidasさんから解説が!

http://b.hatena.ne.jp/Midas/20140524#bookmark-196535166
そもそも「ヤンキーは地元密着vs港区」が最近の前提。

ずっと上で書いたのはかんちがいの記録になった模様ですが orz
とりあえずこういうかんちがい連想をする人もいるという例として残しておきますね。なんというか、ヤンキー肴に安直対談ひけらかしてる亜インテリって嫌だなあというのは私の気持ちとしてあるから。