当事者が語る、ということ。

きのうの日記の続きみたいになりますが。
http://d.hatena.ne.jp/nessko/20150911/p1
元少年Aが自らの言葉で事件について語ろうとするのと、性犯罪被害者が自ら事件について語るのは、当事者が語るという点では同じですよね。当事者のことばであることに意味を見出すなら、加害者、被害者、どちらの語りにも意味はある。
世界』no.874 に牧野雅子『「性暴力加害者の語り」と安倍談話』という記事が載っていて、謝罪をしたいという性暴力加害者と向き合って話を聞く著者が、一人称で事件について語ろうとしない加害者に困惑しているのが伝わってくる。
しかし、それとくらべると、元少年Aには「私」がしっかとあるのですよ。濃すぎて持て余しそうになるほどの「私」が。ちょっと30年前の黒木香を思い出させるほどに。
そして、性暴力被害者のほうは、事件を語る時いかほど「私」をことばで披露しているのか、というのもあってね。
世間の大勢は「私」を開陳しないで済ませられるのが、まともな市民としてのあらまほしき在り方であると認識していそうだし、「私」を表現して評価されるのは、それこそ一部の表現者として世間的に認知された特殊な人たちだけってところないでしょうか。
アメリカでは連続殺人犯のインタビューが書籍化されたり、テレビでも放映されてりしているようですが、見ると日本とアメリカの文化背景のちがいも考えさせられるところがあってね。アメリカでは、とくに白人男性は自我を持つことを強要されるというのがありそうだし、それで自分はこうだと語るとそれを聞く側が受け取り方を知っていそう、少なくとも日本とはちょっとちがった前提を彼らは共有しているように見えるのですよ。
このへんを説明してくれる方はいないのでしょうか。

つけたし

そこにある空間を支配する集団の輪から排除された者は、それでも自分はここにいるとどうしても認めてもらいたいとなると、その集団に向かって話しかけるしかないのだが、しかし自分のことばを発すれば発するほどに、自分を排除した集団にことばを通じて自己を簒奪されてしまう。
話すより先にまずその集団に入れてもらえるような根回しができる人でないと、自分を自分で保つことはゆるされない。
そうではない場もある、のでしょうけれども、そういう場にたどりつける人はごく一部の幸運な人たちでしかない、と思われ。
だから、そういう幸運に恵まれない、傷ついたまま一人で耐えている人もいる、というのは、そういうこともあるだろうなくらいには心にとめておいてもらいたいし、そうしないといけないよね、と。