これなんだけど

news.yahoo.co.jp

 

あまりいいことではないのではという予感がするんですね。はてなでもさして話題になっていない模様だがそれがふしぎな気がする。以前の、ヘイトスピーチ規制とか個人情報保護法とか、これよりはるかに大義名分があったものに対して「それは表現規制につながる!」と抗議の声を上げていたマスコミ文化人の皆さんがまったく無反応に見えるのが「……何で?」気分をさざ波のようにもたらす。ほんとうに、どうして? 誹謗中傷阻止というお題目から、しかしあまりいい方向に転がっていってなくないですか?

 

ま、私はもう年齢的に、だったらもう無難なことだけ書くように心がけようと思って終わりになりますが、十年前の自分をふりかえると、そのころはまだはてなダイアリーを書いたりすること自体がおもしろかったというのもあって、けっこうやんちゃなこともノリノリで書いてたなあというのがあって、だから人によっては今そんな気分の人もいくらでもいるだろうし、以前からネット民の間でも問題視されていた現象が一気に社会問題化したきっかけとなった木村花さんの自殺だが、その最大の要因は彼女の若さにあったと思っているので。

 

住宅街にサルの群れ 三重

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 三重県桑名市星見ケ丘など複数の住宅街で、20匹以上の野生のサルが群れになって出没し、家庭菜園の野菜が奪われるなどの被害が出ている。市によると、近くに林があり、過去にも目撃情報はあったが、住宅街でこれほどの数が一緒に動き回るのは初めてという。

 

体長は大きくても80センチくらいだそうだが、20匹以上群れて来られるとこわいだろうね。北のほうだとクマが出たりしてるけど、サルは身軽に家の中に入って来そうなので別のこわさがある。 

 今年の夏はいろんなことが起きますね。

 

大阪万博2025

www.expo2025.or.jp

 

オリンピック一年延期の影でひっそりと咲いている花のようだ。

何日か前の四国新聞でも下の方に小さくひっそりとロゴマーク最終候補5作品がカラー図入りで報じられていたが、正直言って2025年に万博ができるとは思えない。

オリンピックとか万博とかは20世紀の現象としてこの先語られていくようになるのではないか。グローバリズムが行きつくと色あせていく催しでもあったし。

新型コロナウィルスのせいで、疾走していたグローバリズムが棹立ち状態になってるわけだしね。

 

大阪府知事のおかしな発言のせいでうがい薬が薬局から消えてるそうだが、ああいう振舞いをしてしまうのも大阪万博2025のせいではないのだろうか。忘れていた人も多いだろうが、ちょっとこれを機会に思い出してみて。

コウモリ

 

世界 2020年 08 月号 [雑誌]

世界 2020年 08 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/07/08
  • メディア: 雑誌
 

 

『世界』2020年8月号の特集1は「グリーン・リカバリー」。
その特集記事の中のひとつ、湯本貴和「コロナ危機は生態系からの警告である」より、コウモリに触れた個所を引用しておく。

 


 ここに述べたように、野生動物のなかでもコウモリの仲間が、多くの人獣共通感染症をもたらすウイルスの保有宿主となっている。いまだ開発途上国では大きな脅威となっている狂犬病保有宿主も、コウモリだとされる。このことには、いくつかの進化的あるいは生態的な要因が考えられる。まずコウモリの多様性である。コウモリの種類は哺乳類全体の約二割を占め、地球上のさまざまな地域に生息している。また、コウモリは、哺乳類の進化のなかで基にあたる祖先的な位置に近く、多くの哺乳類と共通の遺伝的な基盤を持っている。さらに、洞窟や樹洞などに集団でねぐらをつくる種が多く、そこでウイルスの集団感染が起こる可能性が高い。哺乳類のなかで唯一飛行性を獲得しているので、いったんウイルスに感染すると、排泄物などを通じて広範囲に感染を広げると考えられる。

(引用元:『世界』no.935 2020 August p.110)

 


 では、人獣共通感染症防止のために、自然宿主である野生の哺乳類を「敵」として撲滅することが望ましい解決策なのだろうか。今回の新型コロナウイルスに関しても、世界各地で自然宿主とされるコウモリへの迫害が起こっている。国連環境計画(UNEP)は、コウモリが直接、新型コロナウイルスのヒトへの感染を広めている事実はないとしたうえで、コウモリは花粉媒介や種子散布などで有用植物の繁殖を手助けし、害虫を捕食することで駆除するなど、年間数千億円相当の利益を人間社会にもたらしているとしている。コウモリの殺戮は、新型コロナウイルス感染症の拡散には何の抑制効果を与えないばかりか、生態系にコウモリがいることによって得られる経済的価値を大きく損ねることになると警告している。

(引用元:『世界』no935 2020 August p.113)


コウモリ、といわれると、以前テレビ番組「リチャードホール」で見たコントの中の、「コウモリ、あいつら筋肉がない!」という台詞を思い出してしまうのですが、調べてみると、たしかに後ろ脚の筋肉は退化しているようですね。ぶらさがるためにひっかけるフックみたいにしか使ってないのか?(下の記事、参考)

www.asahi.com

 

感染症が人間社会にあらわれるのは、人間の行動範囲が広がって、それまで人が足を踏み入れなかった場所にも入って行って生活圏にしてしまうのがきっかけになっており、それまで平穏に暮らしていた動物たちにしてみれば人が外から乱入してきて生活圏を乱されて、それでウイルスも乱世モードなって生き延びようとしているのかもしれませんね。人間の方もそうなるとおめおめ死ぬわけにもいかないので、また対抗策をとるわけですが、とにかくコウモリを退治すれば済む話ではないようです。

 

そして、次のニュース。

www.shikoku-np.co.jp

四国新聞2020年7月29日号ではQ&A付きの大きな記事で出ていて、私もこういう話が好きなのでわくわくしながら読みました。

が、時期が時期だけに、SFホラー脳も動き出して、これからとんでもない微生物が現出して、また人間大パニックになったりしないだろうか? と妄想も湧いた。

 

地球から見ると、人間も微生物みたいなものなんでしょうね。人間は地球を必要とするが、地球は人間を必要としていない。

 

 

 

マスの仮面

 

世界 2020年 07 月号 [雑誌]

世界 2020年 07 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/06/08
  • メディア: 雑誌
 

 

もう8月号が出ているので、7月号は先月号になってしまいますが、『世界』7月号では特集2「共犯のマスメディア」があり、ネット利用者なら一読しておく価値があります。

 河原仁志「デジタル・メディアとアナログ・ジャーナリズム」では、新聞記者としての過去の経験を振り返りながら、取材して事実を読者に届けるとはどういうことか、その際受け取る読者側のことも考慮しつつジャーナリズムとして機能するには何に注意すべきか、そしてもはや無視できない環境となったSNSにどう対処すべきかということが語られています。

 立岩陽一郎「危機に自ら陥るマスメディア」では、主に官邸の取材で、質問数が制限されるなどだんだんに取材がむずかしくなってきている現状を伝えてくれています。

 そして、特集本体ではありませんが、関連するものとして、SEKAI Review of Books で、山田健太が「メディアの変容と民主主義」と題して、中川一徳『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』講談社下山進『2050年のメディア』文藝春秋、を取り上げて評しつつ、日本の新聞、テレビという大メディアの成り立ちと、今後について意見を述べています。

 山田健太によれば、日本には米英のような高級紙という類の新聞はなく、朝日にしろ大新聞は中間層向けの新聞で、「いつでも、どこでも、誰でも、簡単に知識や情報が手に入る」ことをあたりまえのこととすることで戦後民主主義を担う大きな力となってきた、そのためには宅配でほぼ全域の世帯に新聞が届いているという事実が必要であったと書いています。大部数であることによって支えられた力で民主主義を守る、ということになりますね。

 新聞よりさらに大衆メディアとしての性格の濃いテレビも、NHKは受信料制度で、民法はスポンサーがつくことで無料で、日本では全国どこででも誰もが視聴できる環境ができています。いつでも、どこでも、誰でもが簡単にアクセスできる情報源として、たしかに大衆に恩恵を与えてきました。

 ところが、インターネットの普及以来、その地盤が揺るがされつつあり、受け取る側の大衆の意識も変化してきています。これまでのやり方のままでは先がない、という意見は業界内部からも出てきて、どうすればいいか模索中ということですが、ここで拙速にこれまでのやり方を古いと決めつけていいのか、というのが評者の意見です。

 新聞など取材のために政治家とのパイプも作らねばなりません。それが露見したとき、癒着だなんだと叩かれることになりますが、そういうつながりを保ったうえで、しかしジャーナリズムとして機能すべきときは機能する。それができることを可能にするのが、どの家庭にも宅配される新聞の大部数、そしてどこの家にもテレビがある、という日常風景であった、というのです。

 伝統的なメディア企業はこれまでも、こうした建前(理念)と本音(実態)をうまく使い分けながら、「公共的なるもの」をかろうじて守ってきたわけだ。「衣」を脱ぎ捨て「金儲け」という実態に合わせることは、確かに現実的ではある。ただしそれは、世間に慣れていない頭でっかちの書生が激しい戦いの場に丸腰で出ていくようなもので、たちどころにビジネスの洗礼を浴びて息絶えることだろう。
 このことは、「仮面」であったにせよ日本社会における公共性を有していたジャーナリズム活動が一気に弱体化することを意味しないか。この「仮面」は、「マス」であることによって被ることができたものだ。そのマスであるための下限として、世帯数の過半という設定はわかりやすい指標だろう。半分以上の家で紙の新聞を取っている、半分以上の居間にテレビ受像機があって大方の人が受信料を払っている、という日常的風景だ。この絶対的な下限がなくなれば、日本型の民主主義維持装置として、社会制度に組み込んできたメディアへの特別扱いは根拠を失う。デジタルの世界で新聞社や放送局だけに、あるいは逆にIT企業にも範囲を広げて同様の措置をとることも考えづらい。

 (引用元:『世界』2020年7月号 山田健太「メディアの変容と民主主義」p258) 

 

「マスの仮面」というのは、ちょっと乱暴な造語になるでしょうか、でも、マスの仮面を被ると発揮できた力があった、というのは、まことに日本の戦後民主主義的光景ですし、わたしたち一般大衆にとっては否定的な面よりも肯定的な面の方が大きかったはずです。

 しかし、やはり80年代あたりからでしょうか、そうも簡単に言えなくなってきたのは。ジャーナリズムは、まだ事実を伝えねば、裏をとらねば、という重しがありますが、そうではないサブカルチャー、バラエティ方向であればそれもいらない。そして、80年代バブルは余剰な金が回るところには回りましたから、めんどくさいこと考えなくても困ってないけど、という大衆的日常があふれて、それで、その負の面というのが深く地盤に浸透していく。

 そのつけは、やはり弱い層に回りますね、要領のいいできる人はさっと安全圏に逃げられるので。まじめに社会問題に取り組もうとするジャーナリストは、苦境に取り残された人たちのことも取り上げようとする人たちのことになります。

 

 インターネットではマスメディアに対してシニカルな意見のほうが優勢な印象が強いので(わたしが見る場所が偏っているのかもしれませんが……また、私自身、自分の感想としてそういうことを書いてもいるんですが、それだけに)、もう一度、新聞やテレビのニュースについて、見直そう、という気持ちになっています。SNS上でサバクトビバッタ現象が頻発していると見えるようになったせいもありますが。

 『世界』7月号の記事、ぜひ読んでみてください。

 

 あと、前に図書館で読んだのですが、次の本もおもしろかったです。メディアについて考える際、読んでおいて損はないです。

 

シリーズ日本の近代 - メディアと権力 (中公文庫)

シリーズ日本の近代 - メディアと権力 (中公文庫)

  • 作者:佐々木 隆
  • 発売日: 2013/07/23
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

 

ふと思ったこと

 いま、私の脳内には、下の本の表紙のような絵が浮かんでいます。

 

 

 そして、そこに全身タイツフェティシズムのエコー。

そこから広がるイマジネーションから書いています。

劇場にやってくる観客が防護服のようなもので全身を覆えば、観劇はできるんじゃないでしょうか。

病院で医師や看護師が身に着ける防護服をプロ用とすると、それを観劇向けにした、素人考えではプロ用にくらべるとややカジュアルな仕様の防護服。バスツアーで雨が降ったらポンチョ着ますけど、あのかんじ。

そして、そういうものができれば、観劇だけではなくいろいろな場所でも使用できるでしょう。

劇場については、舞台と観客席の間に透明なしきりをつけるとか、なにがしか空気が舞台から客席に移動しない工夫もできそうです。

絵本脳な発想。でも、私も観劇好きなので、見られるようになったらいいなと思ってる。

 

 

 

 

 

防犯カメラで

www.shikoku-np.co.jp

 

四国新聞朝刊には、一面、三面、そして社会面と大きく取り上げられていて、とくに社会面はこの事件の詳細記事に押されるような形で小さく「やまゆり園」事件を忘れないために献花する人々の姿が伝えられていました。

 私としては、今回の嘱託殺人は、ネットでの殺人依頼・ただし殺害対象が依頼者本人、という事件に見えます。それと伝えられる容疑者の過去のネット上での書き込みを見ると、中二病第三期というか、昔はネットでこういうのよく見たなあ、近年は利用者が増えて埋もれてるんだろうなあ、という感想を持った。

 まるで完全犯罪を遂行できるかのような誇大妄想を抱いてるわりには、防犯カメラに映った姿から身元を割り出されて速攻で逮捕されてるあたりのはらほろひれ感は、オウム犯罪を思い出させられましたし、それに加えてドクター・キリコとか『完全自殺マニュアル』とかなつかしい物件も思い浮かんで、なんかタイムスリップ気分に。

 なので、この容疑者のつまらん書き込みから、安楽死尊厳死などという方向に本気で話を進めるようなことは止めていただきたい。殺人依頼した人と同じ難病で闘病中の人も、同じ病気にかかっているというだけで他は関係ないから。生きる闘志を燃やして闘病中の人はいくらでもいるわけですよ、生きていたいから。同じ病気でも人それぞれ、中にはかわった人もいる、そういうことなのでは。