大川周明 イスラムの重要性を先見 「大東亜」で出口見失う

本日の四国新聞「ひと・アジア・歴史」より。

東京裁判で唯一民間人のA級戦犯として訴追された大川周明は、1946年の初公判で東條英機の頭をたたく奇行におよび、精神障害で病院に収容された。錯乱から回復後、コーランの翻訳と注釈に没頭、50年に「古蘭」の題名で出版する。
大川が生涯イスラムにこだわり続けたことはあまり知られていない。戦争のイデオローグはイスラムに何を見たのか。
西欧からアジア
大川の思想的変遷の振れ幅は大きい。旧制高校社会主義に傾倒、東京帝国大ではドイツ哲学にひかれ、キリスト教日本教会に入会。やがて日本とアジアに目覚め、5・15事件で投獄。戦中は満鉄東亜経済調査局で大東亜共栄圏の理論家という存在になる。
イスラムへの関心は、アジア主義者としてインドの独立運動とかかわる中で高まった。戦後、アラビア語原典からの初のコーラン完訳を行なったイスラム学の泰斗、井筒俊彦(故人)は、93年1月号の「中央公論」で大川を回想している。
イスラームに対して本当に主体的な興味をもった人…これからの日本はイスラームをやらなきゃ話にならない…と、私にいっていました」。井筒は、大川が東亜経済調査局で集めた大量のイスラム文献を読み、戦後の研究につなげていく。
未検証の研究
では大川のイスラム観はどのようなものだったのか。日本女子大教授(イスラム現代史)の臼杵陽は、42年刊行の「回教概論」は戦後研究の水準にあったと評する。それはイスラムを「明らかに(東洋と)対立する西洋的性格を有っている」と見た点だ。「イスラムが東洋的宗教と考えられていた当時では慧眼だった」と臼杵
しかし臼杵は「大川だけが突出した研究者ではなかった」とも指摘する。戦中は大川の東亜経済調査局や、井筒や中国文学者の竹内好らが属した回教圏研究所、イスラム教徒との連携を図る大日本回教協会などの国策機関で、イスラムが植民地学として盛んに研究された。だが敗戦で研究体制は一気に衰退する。
「大川のファシズムイスラム研究の関係にはつながらない点も多い。戦前のイスラム研究を検証し、その全体の中で大川を位置付けなければ」と言う臼杵は、戦前研究の文献や写真をデータベース化する共同研究を今年始めた。日本のイスラム研究史の空白が今埋められようとしている。
論じる時
「大川のイスラム認識は移り変わり、『回教概論』で到達点を迎えた」と東大名誉教授(イスラム史)の板垣雄三は言う。
「インドとの出合いでイスラムがアジアの土台の一つと認識した。最初は西欧を打倒する"剣"の宗教と期待したが、『回教概論』で、イスラムは剣ではなくユダヤキリスト教との対話を基に成立したと理解した。イスラムが西欧の対置ではなく、西欧はイスラムの影響で西欧になったという歴史認識を既に20世紀前半の段階で直感していた」
敗戦直後は戦犯の大川は研究者の間で語られず、板垣も大川の業績を参照することはなかった。しかし、9・11やイラク戦争が起こり、文明の衝突論などイスラムが西欧に対立するという世界観が広がる中、「大川を論じる時」と考えるようになったという。
一方で板垣は、大川は思想と現実に引き裂かれていたとも見る。「イデオローグとして欧米植民地主義への対抗を考え、結果的に大東亜共栄圏を推進してしまった。中国との戦争にのめり込み、イスラム教徒とも戦わねばならぬ『大東亜』の矛盾に陥ったのだ」
日本がアジアに対して抱える自己矛盾は戦後も続いていると、板垣は指摘する。「日本は欧米中心主義の"毒"が全身に回ってしまった。大川の欧米を相対化しようとしたアジア的変革への期待、その求道的精神は見直される時期かもしれない。しかし現在、大東亜共栄圏の復習のような議論も見られる。大川を考えるとき、彼が戦争で出口なしになった局面を見過ごしてはならない」(敬称略)
(四国新聞2006年5月28日文化・生活面)

記事には1938年に東京で大日本回教協会が主催したイスラム教徒と日本人の宴会の写真が載っていました。データベース化された同協会の写真資料のひとつで早稲田大学図書館提供。戦前のイスラムと日本の関係の歴史は埋もれたままのものが多いとのこと。