坂本龍一

まず、次の記事を。
[音楽][俺はミュージシャン]へたれ政治的メッセージソングを歌うブルジョア・アーチストがムカつく - 女教師ブログ
上の記事がおもしろかったので、私もそこで紹介されていたPVの感想を書いてみます。
一青窈「受け入れて」のPVについては、私はひどいとは思わなかった。フランケンシュタインの怪物みたいな顔の役者とかわいらしい着ぐるみに出てこられてはメルヘンな光景になってほんわかしすぎている、内容がベタすぎてださい、というのはそのとおりなのだろうが、もっともっともっと筋金入りにひどいPVを昔MTVでゲップが出るほど見せられたせいか、まあこんなもんでしょ、くらいにしか思わないのだった。
歌はまったく印象に残らない。歌詞もまったく頭に残っていない。ただ、柴犬だけが鮮烈である。
うつくしい。
さて、深刻なまでに悪性のひどさを見せつけてくれているのがRyuichi Sakamoto - Zero Landmineである。
いったいこれはなんなのだろう?
USAフォー・アフリカ(USA for Africa)なんていう物件をリアルタイムで目撃しているオバサンがこう言うと、カマトトになってしまうのだろうか?
しかし、ヴィデオを見ての感想はと問われれば、このひとことしかない。
いったいこれはなんなのだろう?
私は坂本龍一のことを「社会派」だとは思っていないが、「ぼくは『社会派』と見なされてもいい派」の人になっているとは思っている。
そして、たぶんその「見なされてもいい」が強く発動した挙句の作品がこれだ。
「社会派」も舐められたものである。
もともと坂本龍一は作曲や編曲や音作りやらその辺に天才性が発揮される人であって、言葉や概念を前面に押し出す方向に才能が光るタイプの芸術家ではない。
もともとそうなんだし、それはみんなわかってるはずだから、世界の坂本が自分の本分である音楽を使ってこういう活動をしてるんだから、聴かせていただいたイナカモノはありがたく「社会派」ぶりを感心してやらなければいけないのか?
そんなことはあるまい。
ジョン・レノンの「イマジン」は社会派でもなければ政治的でもなかった。ジョンが個人的な心象を正直に歌ったものだ。
ロックスターとして公の場で「戦争反対!」とか「世界に平和を!」と発言すれば、賞賛されるだけではすまない。誤解もされ揶揄もされ傷つけられもする。それでも、自分の中にある「戦争反対」「世界に平和を」という願いは嘘なわけではないんだ、政治問題を解決するには何の役にも立ちはしないことはいやというほど思い知らされたけれど、それでも、願いは消えない。
だから、あの疲れ果てたゲッベルスのような声で、ロックスターとしてジョン・レノンは「イマジン」を歌った。
それが光ったのは、ジョン・レノンが役者タイプのロック・スター*1、それも桁外れのアイコンだったからで、「イマジン」という歌自体は特に優れているわけではなかった。「イマジン」はジョン以外の人が歌うとつまらない歌にしか聞こえない。
でも、ジョン・レノンが「イマジン」を歌った、そしてそれが広範囲に共感を呼んだということは、たしかにジョン・レノンが感じたのと同じ痛みを大勢の人たちが抱いていたことをも表す出来事にはなっていた。
ジョン・レノンの「イマジン」と共に人々はそのことを思い出すのだ。
坂本龍一はロックスターでもなければ役者タイプのアーティストでもない。だから、ジョン・レノンがやったのと同じようなことはやれないだろう。
そうなると、どうするのか。音楽は思想や思考や論理をいとも簡単にすり抜けていってしまう特性を持つもので、それが強みでもあり弱みでもあるだろう。音楽で社会問題や政治的課題を扱うことはほんとうにできるのだろうか?
音楽の効力について考えるのが坂本龍一の仕事なのだろうと思う。
でも、今回のヴィデオから伝わってくるのは「社会派にもなれるかもしれないぼくをわかって」ということだけだったりするんだよね。
曲の印象がまったく残らない。歌詞もありがちにつまらない。そして、柴犬も出てこないのだ。