宝塚と芸者

「公共学芸会劇団」としての宝塚とアイドル商法 - こころ世代のテンノーゲーム
上に引用されている『女が女を演じる』の書評を読んで思ったことなのだが、初期の頃の宝塚の「素人」っぽさの反対側に来る「玄人」は、松井須磨子じゃなくて芸者になるんじゃないですかね。
宝塚は、創設者が、日本には社交の場というと男が芸者呼んでということになりがちで、そうではなくてヨーロッパにあるような奥さんや子供といっしょに行ける社交の場を日本にもつくりたい、ということで創ったものだそうですから。
日本の「女性アイドル」を語る場合にも、舞妓や芸者などの玄人文化に目配りしないといけないのではないでしょうか。
そしてそこで論じられるべきなのは、アイドルを消費する側の男の性意識になるんじゃないの?
演劇となると、日本の場合、女形というのがあるので、それをすっとばすことはできないしね。
宝塚ですが、正直言って私も苦手なんですよ。舞台芸術としては、一般的な意味での洗練を追及するのではなくて、宝塚特有の美意識を表現するものですから、その特有さが苦手な人にとっては引く世界が現出してしまう。
しかし、そういう個人的な好き嫌いとは別に、宝塚の舞台で演じる人たちはよく訓練されていて、りっぱな技量をもった女優さんたちだとフツーに観て思いますよ。
元々が『女が女を演じる』という本からはじまってるはなしだから、それを読まないまま書評だけ読んで思いついたこといっても勘違いの嵐にしかならないんだろうなと書いてて気がついたけど、ハロプロのやってることは昔のアイドルビジネスのパロディみたいなもので、消費する側も昔のアイドルファンのパロディを演じて遊んでるような印象があるんですよね。だから彼らのやってることは「ジェンダーロールに忠実」というだけでは切り取れないような気がします。