第一次世界大戦の末期、「提督たちの反乱」と呼ばれた無謀な出撃作戦に反対した水兵たちが蜂起、アホな上官の妄動を阻止した水兵たちの「兵士の革命」に講和を願う労働者たちが合流、事実上の無血革命が起き、当時最も民主的と評される憲法の下ワイマール共和国が誕生する。しかし、政治面では安定せず、議会政治は麻痺しかかっていく。既成政党に不満を持つ人たちの中からナチ党に期待する人たちが増え始める。その背景に「社会主義」のインフレという現象があった。引用部の "あのシュペングラー" というのは『西洋の没落』を書いたシュペングラーのこと。
「社会主義」のインフレ
大戦後、左翼陣営では、社会主義理念のインパクトが共産主義という新理念の出現で薄れたが、逆に右翼勢力の一部に「社会主義」がはやるようになった。あのシュペングラーも1919年に『プロイセン主義と社会主義』を出版した。シュペングラーはもちろん、マルクス主義的社会主義を考えていたのではない。かれの説ではマルクス主義は誤りで、ドイツ社会主義の真髄はプロイセンにあり、その創始者はなんとフリードリヒ大王なのである。かれの「社会主義」は、家柄・身分ではなく、能力・業績で選抜される指導者のもとに国民が結束し、経済が政治に従属する一種の兵営国家のことであった。
興味深いのは、かれの「社会主義」の内容より、現状を否定する新しい未来像を、社会主義という言葉で表現したことである。こうした「社会主義」者はシュペングラーだけではなかった。共和国・マルクス主義・帝制に反対する市民層出身の若い保守思想家に、「社会主義」はお気に入りのスローガンになり、かれらの論文や著作で「社会主義」はインフレ気味に多用された。こうした思想は、「保守革命論」とか「革命的保守主義」とかよばれている。あるべきドイツをめざすには、現状の革命的転換が必要で、そのためには労働者の統合が不可欠である、という認識が、「社会主義」をキーワードにさせたのである。右翼運動や市民層には、用語としての「社会主義」へのアレルギーが少なくなった。
(引用元:『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論社 isbn:4124034261)
ナチ=国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)は、党名に「社会主義」や「労働者」という単語が入っているために、はじめは保守的な市民には胡散臭く思われていた。でも、上で見たような「社会主義」のインフレに伴い抵抗感が薄まった市民からも票を得るようになったと考えられる。
現在、日本では、邦夫のこの発言(参照)からもわかるように、「社会主義」という語は民主党に反感を持つ人が民主党の悪口を言う時によく使うことばになっている。
それでは、いまの日本で、上で引用したようなワイマール共和国での「社会主義」に対応することばはないのだろうか。いまは、まだない、のかもしれない。けれども、ひょっとしたらそのうちそうなりそうなもの、それは「ファシズム」という語ではないかと私は睨んでいる。
こんな本が出ているそうだ。
- 作者: 田原総一朗,佐藤優,宮台真司
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佐藤優はこれまでにもファシズムに言及していて、それはファシズム化する危機に警鐘を鳴らすという体裁の場合も多いのだが、一方でムッソリーニのイタリアのファシズムに対して評価するべきところは見る、ということもよく語っている。イタリアのファシズムは、ドイツのナチズムとは異質な点がある、ナチズムといっしょにしてはいけない、とにかくまずそう言いたいようなのだ。
イタリアのファシズムがナチズムとは似て非なるものだった、というのはそれはそうなのだろうけれども、ファシズムといえばヒトラー、ナチを連想する人が今の日本には多く、ナチズムは悪のイメージを喚起してしまうので(映画でおなじみの悪役だったりするから)、まず "ファシズム≠ナチズム" であることを広めたい、そのように私には見える。
シュペングラーが「社会主義」を流行らせた当時、ワイマール共和国ではまだ社会主義は未知の可能性を持っていただろうけれども、ファシズムは今の日本では過去の悲惨な例をすぐに思い出させるし、現在「ファシズム」ということばにこびりついている意味合いを変えるのは難儀な作業になりそうで、ワイマール共和国で「社会主義」がそうなったように日本で「ファシズム」のインフレが起こるかどうかはわからない。
ただ、これは極私的な感想なんだけど、『日本流ファシズムのススメ。』の著者の中に宮台真司が入っているのが、私の頭の中ではアラームが鳴る一因。
田原総一朗と佐藤優だけなら、おっさんら相変わらずタフやのう(笑)、みたいな、なんかしらんマスメディア上でお盛んなお二人がまたやってるわ、でもこれあんがい受けるかもね、そのくらいでスルーしちゃっただろう。
しかし、ここに宮台真司が入ると、ぴくっとくるもんがあるね。宮台真司は、まずタフなタイプじゃない。私にとっては、宮台真司はかぶれやすい男インテリ。妙に感性が鋭敏な女の子のような感応力を持ち、でも自分は女の子とはちがって頭が明晰で先を見通せるからそうなってるのだとビミョーに勘違いしたままでいる男。
宮台と似たかぶれやすさを開陳してる例として、村上龍がある。村上龍がなにかに夢中になりそれを書くと、それからしばらくして書かれた対象もしくはその周辺に惨事が起こる。龍は巫女のように何かを感じとるが、それはその先の進路を示すというようなものではない。読む側は彼が感じとって表現したものを受け取った上で、その先に自分で想像力を延ばさねばならない。
宮台真司にも村上龍に近いかぶれ体質だと私は思っていて、そのため宮台は要注意物件なのだが、そんな宮台がなぜ参加しているのだろう、『日本流ファシズムのススメ。』に。
ま、これ、読んでみないとわからないか。かぶれてるのかどうかさえもね。それにしても、日本流ファシズムを語るのなら、なんで外山恒一を連れてこないのか。外山はどう思ってるのかね。それも知りたいです。