『世界』2010年7月号 豊永郁子「小沢一郎論 (上)――前衛主義と責任倫理のあいだ」

岩波書店『世界』http://www.iwanami.co.jp/sekai/
1993年以来、政界再編を仕掛け続け、ついに政権を奪取した小沢一郎。「壊し屋」と呼ばれた小沢一郎、その実態は何だったのか。
日本改造計画』を刊行し、一時期は新保守主義者であると言われたりもした小沢だが、サッチャー政権の研究をしていた豊永氏は、話題になった『日本改造計画』を読んで、小沢一郎新保守主義者(ないしは新自由主義者)と呼ぶことに違和感を覚えたという。
その違和はどこから生じたのか。それを解き明かしたのが、この「小沢一郎論」。
畏怖や反発を感じながら、うまく言えなかった政治家・小沢一郎に対するもやもやが、ことばになってわかってくるおもしろさがありました。
豊永氏の読み解いた『日本改造計画』は『日本人改造計画』であって、「真の民主主義」を確立するためには、日本人を改造しなければならない、というもの。小沢一郎が目指す個人と国家の関係は、自由主義の対極にあるのではないか。
くわしくは『世界』7月号の豊永郁子「小沢一郎論 (上)」を読んでください。
菅政権が発足した今、あらためて小沢一郎とは何だったのか、見直しておくといいのではないでしょうか。
以下は私の感想メモ。
小沢一郎は手段を選ばぬ権力闘争を、崇高な目的達成のためだとして正当化するわけです。その目的は「真の民主主義の確立」だと言うのです。
この「真の民主主義」という言い方から、私が思い出すのは、平沼赳夫あたりが好んで使う「真の保守」ということば。「真の」がつくと、現実的というよりロマンチックな、政治にはふさわしくないオーラを放つことばに見え、警戒感を覚えさせられるところが似ている。
民主主義も保守も、わたしたちがよりよい暮らしができるようになるために、社会や政治に対して取る手法や姿勢にすぎないのですが、その手法や姿勢自体が目的化されてしまう倒錯感も漂う。
平沼にくらべると、小沢一郎は現実的だと見なされやすいが、実態はそうでもないのではないか。
平沼伝奇ロマンと並んで、小沢前衛ロマンというジャンルがあるのでは。