『世界』2010年8月号 豊永郁子「小沢一郎論(下)――前衛主義と責任倫理のあいだ」

岩波書店『世界』http://www.iwanami.co.jp/sekai/
豊永郁子「小沢一郎論 (上)」(参照)の続きです。
現代日本では政権とはよく制限された存在で、政権交代をするためのルールも極めて拘束的であるのが当然とされている。にもかかわらず、政権交代をめぐる手続きが特に小沢一郎にとっては権力闘争の過程と見なされ、権力闘争のためにはなんでもありであるかのような様相を帯び、その過程は目的達成を理由に肯定されてしまう。
小沢一郎の権力観には歪んだ面がありはしないか。そして、そんな小沢一郎を持ち上げる一部政治ジャーナリズムにも共有されている倒錯は何なのか。
マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を読み直しながら、ウェーバーの誤読から生じた俗説が日本で一般にも広がっていることが、小沢一郎やその周辺、さらに政治ジャーナリズムまで影響し、なにが読み違えられ、その結果どのようにおかしくなってしまっているかをくわしく説明してくれています。
参院選民主党が大敗した後、また小沢一郎の動向が注目されるようになりました。菅総理が「小沢さんに会いたい」とつぶやくのが私は気持ち悪くて民主党はどないなっとんねんと思ってしまいますが、こんなときだからこそ、豊永郁子「小沢一郎論」、読んでおくといいのではないでしょうか。
私は読めてよかったと思います。
補注の中で、鳩山由紀夫の首相辞任を受けた民主党代表選に出馬した樽床伸二氏が、出馬会見でマックス・ウェーバーの名を口にした件を例に挙げ、この100年も昔のドイツの学者・ウェーバーが、ここのところ日本の政治家の間でシンボルとして流行しているらしいことに注意を促しています。それだけに、ウェーバーをちゃんと読み直す必要があるということです。