有馬学『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本』中央公論新社

日本の近代 4 「国際化」の中の帝国日本―1905?1924

日本の近代 4 「国際化」の中の帝国日本―1905?1924

二十世紀最初の四半世紀の帝国日本は、一般には <偉大な明治> が終焉し、大正デモクラシーが動き出した時代だとイメージされている。
日露戦争第一次世界大戦に勝利した日本は「世界の日本」を意識するようになり、デモクラシー論も、「世界の大勢」を見据えた上でのナショナリティの再確認という傾向の下語られることが多かった。
大正青年は、明治維新世代からすると三代目にあたる。徳富蘇峰に「金持ち三代目の若旦那のようなもの」と評された大正青年は、新しい時代の中で自分と国家との接点を見失い、内向的になる者が多かった。物質的利益追求や文学的煩悶を経て、彼らはもう一度国家の意味を自分で定義し直そうとしていた。
明治憲法の存在をあたりまえのものとして育った彼らは、憲法の解釈を問題にするようになり、同時代の政治を批判する際には立ち返るべき原点として理想化された明治維新を持ち出した。
この時代は「社会」が発見された時代でもある。米騒動は、「大衆」の力が持つ可能性を、役人や学生に気づかせた。
西洋から入ってきた社会主義思想に感化された学生たちは労働者に接近し、彼らの生活環境改善の手助けをすることで、よりよい社会を作り出そうとする。役人たちもまた、社会の構成員としての大衆の実態を調査しはじめる。
普選への期待も高まり、無産運動から政治も動かせるのではと夢を持って活動を続けていた社会主義者がはじめて目にした、自ら立ち上がった大衆による組織化された行動。それは関東大震災時の自警団による朝鮮人虐殺だった。
著者は、1920年代を語るとき、気をつけなければならないのは、都市化とか大衆化とか、時代の特徴を示すタームが現代と同じになってくることだと言っています。言葉は同じでも、現代とは異なる当時の状況を表しているからです。
しかし背景は異なっていても、人のしていることは今と似ているなと読んでいて感じることも多かった。流行言説の作られ方や、一部のモダンガールの姿がメディアで大きく取り上げられ、その影で多くの働く女性の現実が忘れられたままになっていたところなど。
「われわれはモダン都市を過剰に理解してはいけないのである」という文章に寄り添う看板建築の写真、戸袋に浮かぶ江戸小紋がうつくしい。
この時代に満蒙問題が日本人の間でどのように形成されていったかという点にも注目。