二冊の木嶋佳苗本なんだけど

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記

別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判

別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判

北原みのり『毒婦。』は、週刊朝日に連載された傍聴記をもとにまとめられたもので、連載時から、木嶋佳苗へのオジサン向け週刊誌によく出ていた型どおりの見方、語られ方に偏りを感じ、しかもそれが偏りとはされないですんでしまうことへの、マスコミ言説への疑問をこれでもかと突きつけてくる。辟易した方もいたであろうと思われるが、女性たちにとっては共感する面も多く、日ごろもやもやしていたことを、北原みのりがはっきりことばで表してくれて心が晴れたという読者もいた筈で、私もその一人だった。
北原みのりは、木嶋佳苗からいろいろなことを気づかされた、という主旨のことを述べていたけれども、木嶋裁判を傍聴し、事件を取材して覚えた違和感を言語化できた北原氏がえらいのであって、木嶋被告はきっかけに過ぎない。そして、一人の女性として見た場合、北原氏にとってはまったく共感できない、わからない人物だったと記されている。
北原みのりは東電OLと木嶋被告を比較した文章も書いていたが、北原氏はどちらかといえば東電OLに近いのではないか。ちがうのは、東電OLは昼の職場では男社会の建前に自分を合わせることしかできなかったけれども、北原みのりならおかしい!と思ったら「それ、おかしいんじゃないですか?」とはっきり言えるのではないか、ということ。そして、そういう北原氏に共感を示してくれる女性の仲間が周りにいることじゃないだろうか。
木嶋佳苗は、表の社会で自分の意見を主張し、事態を改善しようと試みる北原みのりとは、まったくちがった種族である。木嶋は、ある意味、男社会の現状にそのまま自分を合わせることで肥え太っていったのだ。
女性同士の場合、自分と異なるタイプの女性を理解することはむずかしくなる。共通する部分ではなく、自分と異なる部分をどうつかまえるかという問題が出てくるからだ。「ああいう人もいるのよねえ」「たとえていえばこういうことなのかしらね、私にはそう見えるけれども」と、誠実に分ろうとすればするほど難儀になり、「あれは私とはちがうから、女としてまちがっている!」という、結果として男に利するような言い方をともすればしてしまいそうになる。
それをせずに踏ん張った北原みのりは、さすがだ。
さて、木嶋佳苗についてだが、本を読んで、佐野眞一のほうが直観的に何かに気づいてしまっている、そんな印象を受けた。「わからない!」と苛立ちながら、じつは自分が気づいてしまったことに対して苛立っているのではないか。
そして、その気づいたことを、文章にして表すことができない、そういう苛立ち。それは、佐野眞一が文章で書けない、ということではもちろんない。男性文筆家として、それをことばにしないことにすることで守らなければならない何かがある、木嶋の登場がショッキングだったからといって、その禁忌を破るわけにはいかない! という、たぶん男にしか本当には実感できないのであろう、苛立ちである。
これは、北原みのり木嶋佳苗という別の女性を理解しようとするのとは異なった次元でのことで、おそらく男性にとって女性とはどういう存在なのかというのが絡んでいる。
それでは、佐野眞一は、そのことを書いていないのか? というと、そんなことはない。木嶋と関わった男たちを取材し、彼らの母親や姉が木嶋にどのような反応を示したかも書き留め、そのことに関する自分の感想もはさみながら事件を描き出すことで、結果的にハードコアに木嶋佳苗に映し出される男の現実を見せてしまっているのだった。
そんなことを考えながら二つの本の装丁を見ると、表紙は各々の内容の特性をよく表しているなということに気づく。
北原みのり『毒婦。』は、木嶋佳苗が自分のブログに掲載していた、美化して目を見せない自分。北原氏は、こんな写真をブログに載せてしまう木嶋佳苗の気持ちにも思いをめぐらせ、そこには他の多くの女性にも共通するものがあるし、女性がそんな風にふるまうのはそれなりに理由もあるんだよね、そういうところに光を当てていた。
佐野眞一『別海から来た女』は、太れるだけ太ってこちらをじっと見返す木嶋佳苗の写真。個人的には、本の表紙としてのインパクトはこちらが上だった。私が木嶋佳苗を見つめるとき、木嶋佳苗もまた私を見つめているのだ。佐野眞一も、木嶋の目に映し出された木嶋佳苗を見つめる自分の顔を見てしまったのではないだろうか。それをなかったことにしてしまわなかった、佐野眞一の男気に拍手したい。たぶん、なかったことにしてしまう男も多いと思われるから。

(それにしても、私も木嶋佳苗のトリコになってるな……。いや、本がおもしろかったので。未読の方は、ぜひ読んでみて!)